『アフロ・ディズニー2』は、菊地成孔と大谷能生が慶應大学で行った「現代芸術」枠講義録の後編。鈴木謙介、村上隆、斉藤環、松尾潔などが毎回ゲスト講師として呼ばれている。以下印象的な箇所のまとめ。
現在、オタク・カルチャーが、文化のメインストリームに来ている。消費でも、批評でも、オタクカルチャーがメジャーになっている。日本だけでなく世界も、日本のオタク・カルチャーに注目している。アニメ、マンガ、ゲームと並んで、東京の女の子のかわいいファッションも、世界から受容されている。子どもっぽさ、幼児性を日本だけでなく、世界のカルチャーが歓迎していると言える。
90年代後半エヴァンゲリオンブームの後、オタクは市民権を獲得したが、それ以前はオタクであってもオタクとカミングアウトできないオタク差別の歴史があった。今でもオタクは、被差別感を引きずっている。「差別の対象からメジャーへ」かつ「被差別意識の記憶の継続」というオタク・カルチャーの歴史は、ブラック・カルチャーの歴史と酷似している。この講義では、「オタク=黒人」という仮説の検証を行う。
(村上隆の回から)
ハイ・カルチャーのパリ・モード・ファッションは、長らく黒人文化を差別し、排除してきた。2008年当時、カニエ・ウェストが、パリのモード界に入ろうとしていた。カニエ・ウェストは、自身のアルバムジャケットデザインに、ルイ・ヴィトンとコラボした村上隆を起用している。村上隆というオタク・カルチャーの世界的シンボルと共闘して、ブラック・ミュージックのアーティストが、ハイ・カルチャーの壁を破ろうとしている姿は、21世紀の文化の流れとして象徴的である。2010年現在、以前はタブーだったブラック・ミュージックが、パリコレの会場に流れるのは一般的になっているし、モード・ファッションがアニメを引用するのも一般的になっている。
(高村是州の回から)
ファッションの主流は、少量生産のオートクチュールから、大量生産のブレタポルテに移り、現在では、飾らない普段着であるリアル・クローズがメインになっている。以前は、欧米のファッションが世界の最先端だったが、今では、東京の10代の女の子のファッションが、世界で一番ファッショナブルという評価を受けてもいる(当然反論もあるけど)。
(鈴木謙介の回から)
幼児から大人の過渡期として、青年、若者という概念が日本で登場したのは、戦後のことである。会社勤めの父親は、長時間残業で不在の為、日本の若者が反抗する権威は、母親だった。母親の権威に甘えることをやめるために、全共闘世代の若者は、自分の意見をはっきり主張する自立の態度を求めた。それと同時に全共闘世代は、学生運動の中で一体感、高揚感を求めた。
自立を追求する学生運動は、70年代に衰退する。「オールナイトニッポン」などラジオ深夜放送が流行すると、若者の間で、仲間うちでのウケ狙いの投稿、ノリ重視のコミュニケーションが流行する。規範的な大人になる必要がない、ウケ狙いのコミュニケーションは、2ちゃんねる、ニコニコ動画の投稿にも続いている。
メディアに対する態度として、Aボーイ、Bボーイという類型化ができる。Aボーイ、オタク文化は、メディアに自分をシンクロさせる。メディアの輪郭線に自分をピチピチにあわせる。一方、Bボーイ、ストリート文化およびヤンキー文化は、メディアの輪郭線から自分をずらせていく。Aボーイは、メディアを家の中で真正面から受容するのに対して、Bボーイは、屋外でメディアを模倣するパフォーマンスを行う。
Aボーイ、Bボーイという分類は、現代では難しくなっている。両者が混合しているためである。Aボーイのオタクも、秋葉原殺傷事件前は、秋葉原の路上で踊っていた。コミケの同人誌制作、ニコニコ動画でのMAD動画制作は、メディアが提供する作品の輪郭線をずらしていく行為だと言える。一方、Bボーイが行うストリート・ダンスは、だんだんパターン化していき、自由な発明がでなくなった。
輪郭線からずらすことが、ブラック・ミュージックの核心としてある。コード進行からジャンプして、また戻る。モードからアウトして、また戻る。一旦ずらした後、戻ってくることが重要。戻ってくる力は、「悪い子の力」だと言える。缶蹴りの途中に、家にジュースを飲みに行って、また缶蹴りに戻ってくる能力。マラソン大会の途中に、草むらでタバコを吸って、それでも最後にはゴールする能力。この「悪い子の力」、ずらして戻る力が、ブラック・ミュージックの推進力だった。
クラシック・バレエは、規律訓練であり、型の反復、コントロールが求められるが、訓練の果てに体が壊れる。クラシック・バレエが「入力」だとしたら、ブラック・カルチャーのダンスは「脱力」だと言える。体に不自然な動きをしていないから、妊婦でも子どもでも老人でもダンスを踊れる。
ロック・ミュージックは、「過入力」だと言える。ロックは崩すし、輪郭線を破壊する。過剰な入力により、アンコントロール状態になる。対して、ヒップホップの動きは、輪郭線からずれるが、また必ず戻ってくる「崩れているようで崩れてない、ぎりぎりのところをボディ・コントロールする」パフォーマンスである。ルールから外れて、また戻る「悪い子の力」が、現代文化では失調していると思える。(個人的には情報技術のリアルタイム化、高速化が進んだ結果、線から外れる時間的余裕がなくなっていると思われます)
(その他もろもろトリビア)
・村上隆はいばっていて、自己主張が強いイメージだったが、カニエ・ウェストやヴィトンのマーク・ジェイコブスと仕事する時は、超低姿勢でおもてなしの態度だったそう。
・村上隆は『マクロスF』の武道館ライブに観に行っていた! 軍備を去勢された日本文化の妄想表現の極致!?『マクロスF』的なものを、パリのモード界に入れていくのを手助けしたいとのこと。
・「Living well is the best revenge」(優雅な生活が最高の復讐である。)という言葉が、松尾潔の回に出てきた。悪くない格言。
・松尾潔はブラック・ミュージック好きだが、吉田健一みたいな日本近代文学も好きだし、映画ではヴィスコンティも好きだった。ブラック・ミュージックを聴くんだったら、スパイク・リーの挑発にキャッチアップしなきゃいけないんじゃないか、と思って、スパイク・リーと話した時、スパイク・リーがベルイマン監督のすばらしさを語り出したという。そこで松尾は、回り道感に驚愕。
(この心の叫びには共感。自分もハイ・カルチャーとオタク・カルチャーに片足ずつ突っ込んでいて、心の分裂感があるけれど(当ブログの構成からしてそうですが)、押井監督がワイダを評価する言葉を聞いたり、富野監督がゴダールのファンだと知ったり、河森監督が環境問題について語るのを聞くと、まわりまわってつながるのかという想いに襲われる。まあ今のカルチャーは、ハイもサブもオタクもスーパーフラットの並列状態だから、全てのジャンル分けされた異物が、リンクするわけだが。)