2016年08月13日

NHK教育「SWITCHインタビュー達人達 市村正規×立川志の輔」印象的な言葉のまとめ

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立川志の輔
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by G-Tools , 2016/08/13



NHK教育「SWITCHインタビュー達人達 俳優・市村正規×落語家・立川志の輔」より印象的な言葉をクリッピング。

市村:悔しさをバネにしてこれた人と、駄目に思った人の別れ道があると思う。自分の役が小さいとか、セリフが少ない時、「一言のセリフでもいろんな言い方ができるんだ」と毎回楽しめる俳優と「俺はもう一言しかないから」といっている人間は、後に見事に道が別れていく。一言でも生き生きと毎回やっている人間は、そのセリフが嬉しくてしょうがないから、増えればまた嬉しくなる。

立川:談志は「芸術と芸能の間が大事なんだよ」といった。「俺はたった一人でもこれがやりたいんだ、これが最高のものなんだ」と思ってやるのが芸術の考え方。民衆がいて、楽しむ人達に囃されて「踊れ」と言われて踊るのが芸能の考え方。芸術と芸能の間が大事。「俺にしかできないんだよ」という思いと、「みなさんのおかげでやっている」という思いの狭間を毎日いったりきたり、その幅で揺れ動く。己と観客の間のどこにお前はいるのか、いたいのか。お客の方に行く日もあれば、お客を舞台にあげようとする日もある。それはテクニックで決められるものじゃなく、自分の体調による。幸せなことに落語家は、一人で決めることができる。落語家の喉の調子が悪いと、不思議なことにその日の登場人物はみんな喉の調子が悪くなる(笑)。

立川:談志は落語を演じない。この前行ってきた海外旅行のことだけで30分しゃべって、見事に日本がどういう位置にあるのかということを笑わせつつ、聞かせる。これも落語なんだと。演目にいかに己を入れるかが落語なんだということを談志から学んだ。
市村:作品を語るんじゃなくて、役にいかに自分を入れるか。昔、劇団四季にいた時、浅利慶太さんに「台本ふったって役は出て来ないんだよ。役はお前の心の中にあるんだよ」と言われた。「台本をお前のこっち側に持ってこい。台本の中に入ろうとするな。お前がハムレットなんだ。台本がこっちに入るんだ」と教わった。
立川:談志も抽象的。落語とは業の肯定、イリュージョンだという。「わかんねえ顔してるけど、俺がちゃんとやって見せてるじゃないか。毎度の高座がイリュージョンなんだ」。
市村:僕なりのハムレットでいいんだ。
立川:でもセリフ変えちゃいけないんでしょ。
市村:僕の考えたハムレット。ハムレットだからこういう声出すとかじゃなく。ミュージカルやる人でも急に声変わる人がいる。僕は声に自信がなかった。声のいい人は声に頼る。

立川:落語を縦に深く掘る方もいれば、横に広げる人もいる。
市村:一番いいのは深く広く、高く。
立川:どうしてそういう辛いことを。
市村:なんで? そうしたら一番お客さんが喜ぶ。

市村:面白いものはぽんぽん出る?
立川:古典落語は飢えと寒さと貧乏の三拍子そろった江戸時代の世界を演じる。ところが、ドラッグストアに入るとものが多すぎて、シャンプーどれを買えばいいんだと悩む。部長が「今晩一杯行くか?」というと、新入社員は「結構です。お酒好きでもないですし、ダイエットも考えてますんでまたよろしくお願いします」と答える。ところが、古典落語の中で「今夜一杯行くか?」というと、「本当に? 本当に? 俺何でもする、何でもする」となる。ああこの人、お酒一杯で何でもするってどういう人なんだろうって思うかもしれない。そこらへんまで時代が違う。江戸時代を背景にした古典落語のスピリッツと、モノ溢れている今の時代のスピリッツ、両方やれたらいいなと思って、新作落語を作るようになった。

市村:立川談志に出会うまでの間に落語を形成している部分があると思う。
立川:落語家になったら、富山に生まれてよかったと思うようになった。僕がどれだけ逆立ちしても、江戸っ子の言葉を寸分違わぬように言えることは絶対ない。どうやっても私は富山の人間。落語の根底に流れている人情的なものでいうと、僕は富山の人間の情でしゃべっている。富山なんだから、富山の情でしゃべればいいんだなと。自分の中に情の基準を持っていて、娘にしゃべる、町内会でいう。富山でいいんだと思ったら、急に人情話もしゃべれるようになった。落語の人情話は、日本の情。東京、大阪とかそういうポイントじゃない。日本の情。

<番組後半は立川志の輔が市村正規にインタビュー>
市村:俺は一生懸命お客さんにむけてやっていた。そこまでやらなくていいからと演出家に言われた。初日は市村にひっぱられていたけど、今はカンパニー全体があがってきたんで、ハッキリ言って市村の芝居はうるさいと言われた。50%でいいと言われた。半分の力でやったら、お客さんが身を乗り出す感じができた。その時から、小屋が自分を受け入れたように感じた。観客の想像力を働かせるのがいい芝居なのかなとその時思った。
立川:談志も若い頃は、お客をねじふせるようにしゃべっていた。晩年の談志は、しゃべっていると後ろの方から「聞こえねえぞ」とヤジが飛んだ。すると談志が「聞こえねえ時は聞こえなくていいような内容しかしゃべってないんだ」とこたえた。小さい声でしゃべると、お客さんがはいってくる。気分的にざわついているのが、一つになる。さっきまで聞こえなかったのが、普通に聞こえる状態を作っていた。

市村:舞台は旅。嫌な旅といい旅がある。「サイゴン」はいい旅。「どうやったら毎日飽きないでできるか」といわれたら、昨日のことは忘れている。300回やったら、300とおり歌える。意識してやっているわけではない。昨日のことは忘れている。今日の気持ちで歌っていれば、明らかに昨日と違う。ちょっと受けると、意識するのが俳優。意識すると、もうその笑いは取れない。芝居じゃなくて、違う役者の生理が入っちゃう。
立川:古典落語は、確実に笑うポイントが決まっている。そこでウケないと焦る。次のポイントに行こうとして、落語がどんどん早くなってしまう。落語の場合は逆ですね。昨日ウケたけど、今日ウケなかったとはできない。

<ミュージカルは感じること、楽しむこと>
立川:歌いながら死んでいくのは、気持ちのいいことだとわかってきた。能や狂言は規則や誓約がわからないできいていると、乗れない。ミュージカルの場合は、芝居、踊り、歌、その三要素を切り替えながら、気持ちがきれないのはどうして?
市村:いいミュージカルは乗れる。悪いミュージカルは気持ちがきれる。なんでこれ歌うんだみたいになる。
立川:全ての芸能、芸術は、演じている人間の楽しさが伝わったらそれが最高。
市村:あなたたちがエンジョイしなかったら観客はエンジョイできないと外国の演出家に教わった。
立川:知り合いで、日本人の親子が外国人と一緒に能を見たら、外国人は目を輝かせて素晴らしいといった。外国人を連れていった日本人の親子は能の楽しさをわからなかった。
市村:言っていることはわからないけど、音の響きとか歌とか、自然にニュートラルにはいってくるのかも。
立川:日本人の親子は、言葉どういう意味なんだろうと考えているうちに疲れちゃったのかも。
市村:わかろうとするのがだめなのかも。わかろうとするんじゃなくて、そうなっちゃう。

市村:本気で泣いたり、笑えたりする芝居がある。そういう時は、外国人の客も泣いている。

市村:僕は台詞を覚える作業が好き。あと1、2ページやると覚えちゃうなって時は覚えたくない。自然に入るようにしたい。みなさんセリフを覚えるの嫌だという人が多いけれど、僕はセリフを覚える作業が好き。

<市村の師匠、浅利慶太さんと蜷川幸雄さん>
浅利さんだったらどういうかな、蜷川さんだったらどういうかなと。「女優の前には立つな、女優の幡三後ろで下がっていろ」と。するとお客さんは「あれ女優の後ろに立っている人誰だ」となる。謙虚じゃなくちゃいけないのかなと。蜷川さんと浅利さんは、まるっきり逆の時もある。蜷川さんは四季なんて認めないといいながら、「お前は四季っぽくないよな」と。「でもお前は基礎があるからそれは四季で学んだんだな」と。蜷川さんは、俳優がやろうとすることを「もっとやれもっとやれ」という。蜷川さんの前にいくと、何か持って行かないと怒られちゃう。「つまんないのはだめだ。俺を楽しませろ」と。セリフがセリフでなくなっちゃったって、ただ感情だけで言ってる時があった。その時「今日はいい稽古見せてもらったよ。こんないい稽古見せてもらったら後はやることないから帰ろう」と。「NINAGAWAマクベス」の時は、厖大なダメ出しをもらった。蜷川という名前がついている作品。

<芸術と芸能のバランス>
立川:自分で気に入った絵を描いて、たとえその絵が売れなかったとしても、自分で最上のものだと思って、人生懸けて描いていればそれでよいという考え方もあれば、たくさん印刷したくなるような、ウケるってどういうことだとか、世の中のニーズは何かとか、少しは考えなよっていう。その二つのいやでも、でも、でもでも、ってここのとこなんだぞお前って、談志にいわれた気がする。
市村:僕ははっきり言って区別がわからない。考えたこともない。僕の好きな画家でゴッホがいる。ゴッホが生きている間は、生きている間絵が売れなかった。売れなかったからこそ、彼はあそこまでの絵を描けた。売れなかったからこそ神様が彼に与えた筆、色使いが入っている。芸術か何かはわからない。これがゴッホの絵だ。僕の芝居も芸術か芸能かはわからない。これは、僕の演技です。
立川:芸術と芸能の間のどこに位置するのか、お前が決めないと、こっちに流され、あっちに流されていたら仕方ないんだよと、談志に言われたのかしれない。


(所感)
純文学とエンタメどっちで行こうか、あるいは新人賞とネット小説どっちで行こうか、あるいは評論やエッセイ―と小説どっちで行こうかなどいろいろ悩んで生きてきたので、芸術と芸能の話は響いた。ジャンル分けにこだわらず、自分を出すんだと、毎日書き続けていればそれでいいんだと思ったり。
posted by 野尻有希 at 23:57 | TrackBack(0) | 創作技術論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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