2016年10月15日

小説「3月11日の記録(仮)」(1)

横断歩道に向かう。歩行者用信号が点滅する。彼は駆け足になる。歩行者用信号が赤に変わる。彼は横断報道を渡り切る。

選挙演説が聞こえてくる。政治家事務所のスタッフが挨拶してくる。彼を含めた歩行者達は、伏目で駅に向かう。地下鉄の入り口には、選挙の立候補者が立っている。テレビでも見かける元大臣の政治家だ。おはようございますと政治家がいう。彼は足早に通り過ぎる。

何人もの通勤者に無視されても、政治家達は挨拶を繰り返す。無視されても挨拶を繰り返して顔を売れば、やがて富と権力を手にするのだろうか。

地下鉄の階段を駆け足でおりる。改札に定期券の磁気カードをかざす。スーツのポケットからデジタルウォークマンを取り出す。マイルス・デイヴィスのソーサラーを聴きながら、電車を待つ。電子楽器を使い始める直前のマイルス。アコースティック音楽の到達点。トニー・ウィリアムスの超人的なドラムが彼の耳を襲う。マイルス・デイヴィスはジャズの発展の歴史とともにあった。その時代の最高のメンバーを揃えて、新しい音楽を開拓し続ける。彼はマイルスに憧れている。

電車がホームに入ってくる。満員電車だが、ドアの付近には人間のスペースが残されている。

彼は電車に乗る。狭いスペースが人間で埋め尽くされる。彼はウェイン・ショーターの黒魔術的なサックスの響きに脳神経の波長を合わせる。

電車が出発する。彼は人間と密着している。

若い女性の体温を感じる。痴漢に間違われないように、両手が女性の体に当たらないよう注意する。満員電車で会社に通うことにも慣れている。慣れればどんなことでも受け入れられる。

彼は目を閉じて、車両にいる全員が全裸の可能性を夢想する。むき出しの裸の人間が満員電車に閉じ込めらている。彼らがたどり着くのは強制収容所だろうか。ガス室に送られて死体の山に変わるだろうか。いや違う。みんな会社に向かう。生きながらゾンビのように働くのだ。慣れてしまった。慣れてしまえばどんなことにも耐えらえれる。

会社の最寄り駅に着くと、彼は喫茶店に向かう。注文しないうちに店員がアイスコーヒーを煎れる。ソーサラーを聴きつつサンドイッチを食べ終えると、彼は鞄から小説を取り出す。クッツェーの「恥辱」を読みながら、彼は頭痛を感じている。朝は毎日頭痛がする。枕が体にあっていないのだろうか。それとも会社に行きたくなくて、脳がありもしない痛みを作っているのだろうか。彼は頭痛薬を飲み、出社までわずかな時間の読書を楽しむ。

始業十分前に彼は会社に着く。デスクトップの電源を入れる。社内グループウェアを起動して、出社ボタンを押す。彼は仕事を始める。(続くかもしれない)

photo
Sorcerer
Miles Davis
SBMK 2008-04-28

by G-Tools , 2016/10/15

タグ:小説
posted by 野尻有希 at 00:32 | TrackBack(0) | 創作ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/442810563
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック