2017年02月05日

小説から現代詩に変わっても書くものは変わらない

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詩学講義 無限のエコー
吉増 剛造
慶應義塾大学出版会 2012-12-08

GOZOノート 1 コジキの思想 怪物君 吉増剛造詩集 (ハルキ文庫) 我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ! (講談社現代新書) GOZOノート 2 航海日誌 GOZOノート 3 (わたしは映画だ) 心に刺青をするように 対訳 ディキンソン詩集―アメリカ詩人選〈3〉 (岩波文庫) 根源乃手/根源乃(亡露ノ)手、…… ブラジル日記 (Le livre de luciole (32))

by G-Tools , 2017/02/05



今読んでいる本は、吉増剛造の「私学講義 無限のエコー」。書店に吉増剛造の詩集を買いに行ったら売っていなくて、かわりにこの本を買った(吉増の詩集は本屋滞在中にスマホでアマゾンに注文した)。慶応義塾大学で行われた吉増の講義録。話が際限なく脱線していくというかあっちこっちに話が飛ぶ。論理的につながらないようでいてつながっている。いかにも詩人の本。この講義録を読むと、他の文化人が行った講義はひどくまともというか標準的に思える。

ここ15年近く小説を書いてきた。途中脚本を書いた年もあったし、休んだ年もあったけど、今年から詩を書いていくことにした。現代詩手帖に毎月詩を投稿する。ツイッターでの超短編小説、詩、短歌の投稿も続ける。ずっとほったらかしにしていた自作電子書籍のキンドル化にも取り組みたい。「取り組みたい」とか願望形式で書くとまた先延ばししてしまうから、早く事務手続きをして、3月には1作キンドル化しよう。

日本の現代詩業界は、エンタメ小説や脚本や純文学の業界よりも活気がない(短歌や俳句よりも活気なさそう)。現代詩だけで生活している詩人なんて谷川俊太郎くらいしか思いつかない(作詞家の秋元康は多額の収入を得ているだろうが)。

大学の頃、職業選択した時、現代詩人になろうとは思わなかった。大学生の当時から詩人は職業として成立しにくいと思えた。大学卒業後、15年近く経ち、別に創作で収入を得なくても良い環境になったら、現代詩が自分に合っていると思えた。小説の新人賞だと、受賞作も、小説誌に載っているプロの小説家の作品も、自分と全く別の世界の作品と思うことが多かった。現代詩の場合、投稿欄に載っている作品も、プロの詩人(副業している人多数だけれど、詩の世界で実力を認められた人という意味において彼らはプロ詩人)の作品も、自分の書いてきたものと地続きだと思えた(近いのは怖いことだけれど)。

自分が小説の世界で続けてきて、評価されなかったものたちと、現代詩の世界は通じている。お金が儲かりそうにないという理由で拒否した道だったけれど、最初から現代詩を選んでいたら、人生もっと楽だったかもしれない。

吉増剛造の本は、アマゾンで酷評だらけ。こんな本書いているから、現代詩はだめなんだ的な批判が目につく。散文はわかりやすい言葉を使って、論理的に説明する。詩は省略をする。説明しない言葉は嫌われる。現代詩は時代と合っていない。読まれない。

現代詩は、近代詩に比べると難解で前衛的になった。一方、SNS化した現代世界では、近代詩的なストレートの言葉が受けている。「保育園落ちた日本死ね」。これは心の叫びで、現代詩だ。トランプの言葉も現代詩といえる。強い言葉を使っている。

難解になった現代詩は、多くの支持を得ない。現代詩は写真、動画、単純な言葉の魅力に負けている。現代詩はもう古い。かといって、ストレートかつ過激な言葉を使えばいいというわけでもない。

井戸にぶち当たる言葉を模索する。明日からも模索する。

しばらく小説は書かない。現代詩を書く。短い現代詩は小説に似ている。自分の中でやっていることは変わらない。できあがったものを短い小説と呼ぶか詩と呼ぶか。それだけの違い。
タグ:現代詩
posted by 野尻有希 at 23:28 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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