2010年01月12日

本当に必要なものは何なのかと自問してみること

数ヶ月前、近所のコンビニが潰れた。道路の向かい側に新しいコンビニができて、お客を奪われたためだ。

コンビニがあって便利なのに、道路の向かいにコンビニができて、競争が加速する。出店した店は道路の向かい側にコンビ二があっても、売上を確保できる自信があったのだろう。

慣れ親しんだコンビニが潰れた時は胸が痛んだが、先月末、かつてコンビニがあった空間に100円ショップがオープンした。

今度は100円ショップと、道路の向かいにあるコンビニで競争が始まる。このあたり一帯に住む人々にとってみれば、コンビニが2軒並んでいるよりも、コンビニと100円ショップがある方が便利だ。自由経済競争を実感した光景だった。続きを読む
タグ:日記
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2009年10月05日

エコロジア、フィロソフィア:テレビは時間を奪う

<テレビは時間を奪う>

夜、テレビを消して、音楽も消して、静かにすると、心が落ち着く。時間がないという想い、強迫観念が消えて、安らかな気持ちになる。

テレビは時間を奪う。というか、文明は、人から時間を奪う。

テレビを消せば、時間が自分の元に戻ってくる。夜、電気も消せば、さらに時間が増える。

暗くなったら、電気を消して、心と体を休めること。

電気があって、文明生活を営めば、環境破壊につながるということ。

何かを生み出せば、何かを破壊するということ。
 
疲れるならば、安らかになる方を選択したいという願い、自分自身にとっても、僕たちが暮らす地球という惑星にとっても、一番安らかなる方法の選択を願って。

(エコロジア、フィロソフィア)
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2008年09月21日

自分の自由を守るためには、社会構成員の自由も尊重する必要がある

アメリカのライス国務長官とロシアのメドベージェフが、グルジア紛争の問題から派生して相手を罵倒しまくっている。全く持ってはしたない大人のつばぜり合い。大国の代表たちが、なぜいがみ合うのか。二人というかアメリカとロシアの間に、良心的な理性の心があれば、いがみ合うこともないだろうに、現実では、お互いの国益のために、政治家たちがいがみあうこととなる。

学のある者たちが描いてきた理想とは程遠い殺伐とした現代世界。人間の歴史は年を追うごとに自由になっていくが、今ある自由の姿は、私利私欲の情念に包まれたものだ。食品偽装が何故起きるか。自分の利益拡大を消費者の安全よりも優先するためだ。無差別殺人が何故起きるか。同じ社会の構成員を最早仲間と感じられないためだ。自分の欲望を満たすため、好き勝手に行動し、相手を傷つけることが、はたして人間が求め続けてきた自由であろうか。

一人の自由は、別の一人の自由を侵犯する。社会構成員の自由を保障することが、個人の自由を維持するためには必要だ。自由に伴う社会的責任を放棄して、ただ闇雲に私利私欲に基づいて生きていては、生命の尊厳も生活の保障も崩壊し、自由の領域が狭くなるばかりだ。

大切なことは自由のもろさを教え、伝えること。私利私欲のために振舞うことが自由ではない。かといって、国家のために自らを犠牲にすることが正しいわけではない。自分の自由を守るためには、社会構成員の自由も尊重する必要があるという自由の条件を忘れずに伝えること。

こんな当たり前なことを何故書かなければいけないのか。国家と国家がいがみあい、人殺しが毎日のように起きているためである。
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2008年02月13日

ノーマライゼーションと優生学は鋭く対立する

私たち人類は絶滅せずに進化してきた。文化は進化を加速させた。文化はまた、進化論と優生学を生み出した。

優れた人だけ残して、劣っていると考えられる人を根絶すること、隔離することは間違っている。自分よりも劣っていると思える人を隔離しようとする優れた人は、絶対に優れた人なんかじゃない。

優れた人は優れた社会を創ろうとするだろう。彼らが作り出そうとする社会は、弱者、敗者を排除する社会だろうか。それとも、困っている人たち、自分の同胞である多くの人たち、生命たちに豊かさと愛情を配る社会だろうか。

ノーマライゼーションの原理は優生学と鋭く対立する。私たちは豊かな社会を創る力がある。そうした力があるなら、力と人生を有意義なことに使おう。私の力を必要としている人たち、生命たちが世界中にたくさんいる。彼らの力になろう。全ての困っている人たちと豊かさを分かち合う。

世界を変えることができる。力をあわせれば、世界を変えることができる。
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2008年02月11日

特集「7代後の孫に伝える価値〜自由民主主義とは、自由と平等と博愛の精神を万人にもたらすもの」

このブログで、新約聖書の文章を進化論的に解釈するインターネット講座を持とうかと考えていた。聖書ばかりだと問題があるだろうから、ネイティブ・アメリカンに伝わる教えも同時に進化論的文脈で解釈し、聖書の教えとネイティブ・アメリカンの教えのすばらしさは、現代に照らしてみてもすばらしいと伝える講座にしようかと考えたりもした。

書店に行くと、聖書、ネイティブ・アメリカン以外にもたくさん、古代からの教えを伝える本がある。もちろん日本にも古くから伝わるすばらしい話がたくさんある。特にこだわり無く全てを受け入れようと思った。

現代社会ではそうした価値観は忘れられている、だから犯罪や事件が続出すると思ったりしていた。しかし、デンマークのあり方を見ていたら、自由民主主義はすばらしいと思えた。民主主義は近代になって人間が見出した新しい価値観だ。民主主義がない時代では、現代同様に、それ以上に殺し合いや不当な人権侵害があったことだろう。何より、人権と言う概念さえ古代にはなかっただろうけど。古代を理想化するのはやめようかとも考えた。今には、自由民主主義がある。

昨今では民主主義を否定する言説が多い。自由民主主義は制度疲労を起こしているのだろうか。民主主義は多数決の原理だといわれる。マイノリティーは民主主義社会で差別されるという。デンマークの本を読んでいた時、民主主義とは多数決で全て語れるものではないと思った。民主主義の本質とは、万人の万人に対する自由、平等、博愛の精神だ。現代はその権利を生命体全体に拡大してもいいだろう。社会全体の自由と平等を尊重すれば、多数決によってマイノリティーの権利を拡大することができる。だいたいにして、マイノリティーと多数派に区別はない。みな社会の構成員であり、民主主義の参加者なのだから、民主主義は全ての人に自由と権利と博愛を送り届けようとするだろう。

日本に民主主義の原理は根づいているのだろうか。世界は民主主義でうまくまわっているのだろうか。問題は山積みだろう。しかし、民主主義はみんなの協議によって問題を解決していくことができる。みんなが知恵と意見を出し合えば、解決策を検討し、実行することができる。人類の営みに限界はない。私たちは自由に意見を交換して、社会改革に取り組むことができる。こうした発言の自由も民主主義の成果の一つだ。

では、資本主義をみてみよう。資本主義とは、現代風にいえば自由主義経済だ。民主主義と自由主義経済はセットである。自由主義経済は富めるものに富を集中するものだろうか。自由主義経済の本質とは、職業選択、経済活動の自由、平等性、博愛の精神である。自由主義経済が不幸を生み出しているとすれば、経済活動の参加者が自由、平等、博愛を実感できていないからだろう。本来誰もが自分の望む仕事を自由に選択し、博愛の精神を持って働くことができるのに、多くの日本人はみんなが就職するからと言う理由で、何気なく企業に入って愚痴を言いながら働いている。こうした状況は民主主義がもたらしたものではない。民主主義は本来人々を自由にし、自己実現を支援するものだ。

民主主義の本質とは、ケアの精神かもしれない。一時の、お金を得るためのサービスではなく、相手の人格の成長と自己実現を願う心からのケア。こうしたケアが経済活動の中心になってくれば、自由民主主義と自由主義経済は、地球環境にも適切なケアを配ることだろう。基本理念を忘れていると、制度が疲労する。基本理念を再現していけば、幸福は持続する。
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2008年01月14日

文化、民族、進化論、生命多様性、自由意志による選択

NHKBS世界のドキュメンタリー、新年度は「奇跡の映像 よみがえる 100年前の世界」という特集番組が放送されていた。

NHKのホームページから第1回放送分の紹介文を引用しよう。

「独仏国境のアルザスでユダヤ人家庭に生まれたカーン。証券デイーラーとなり大富豪に。ドレフュス事件で反ユダヤ感情が渦巻くと、社会の表舞台から退き、各国を旅するようになる。

カーンは各地から失われていく少数民族の文化、生活を記録し、20世紀初頭のあるがままの世界の姿を記録するべく、当時、画期的とされたカラー写真(オートクロム)の技術で第一線のカメラマンに世界各地を回らせ、結果的に今から100年前の世界5大陸の映像が後生に残ることになった。一部ムービーでも記録が残されており、映像には、各地から消え去った100年前の人々の暮らしや風習、世界地図が塗り変わる前の各国の姿が残されている。」

http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/080106a.html

20世紀初頭の世界中の民族、文化のカラー写真は新鮮だったし、カラーで撮影された日常の映像も衝撃的だった。こんな貴重なものが残されていたのかと驚いた。

昨日放送された最終回では、カーンの最後がまとめられていた。カーンは今ある文化が次第に衰退していくこと、人間生活は移り変わっていくものであることに気づいていた。故にあるがままの世界をできるかぎり記録しようとした。カーンのこうした活動を見ると、日常風俗を描く小説や日記の貴重さ、大切さが想起される。全ての言葉、記録には絶対的に意味がある。この信念は、あらゆる文化、民族、風習には価値があり、尊重されるべきだという思想につながる。

フランスはドイツに占領された。占領軍はカーンの邸宅にあるユダヤ人関係の資料も没収したが、カーンが残した写真と映像記録には興味を示さなかったという。なぜか。それはカーンの思想とナチスの思想が全く違うものだったからだ。ナチスは優生学の思想をとっていた。すなわち、ドイツ民族こそ世界で一番優秀であり、他民族の文化は劣っているというものだ。こうした思想の元では、世界中の風習に興味など湧いてこないだろう。対してカーンは、どれが優れているかなどなく、全ての風習、社会、文化には等しく価値があり、記録されるべきだと考えていた。

これはヒューマニズムの優れた形だが、21世紀の人類は人間文化だけでなく、背名全体の活動に価値をおくべきだろう。すなわち、地球上のあらゆる生命活動には価値があるのだ。どれが優れているというわけでもなく、どれもいつか衰退していく運命にあるのだから、等しく保存し、尊重し、記録する使命がある。なぜそれが使命かといえば、人類には文化を記録し、保存し、再生する技術があるからだ。

こうした思想はダーウィン的進化思想と相反するものだろうか。違う、ナチス流の優生学こそダーウィン思想の誤解によるものだ。生命活動には時間がともなう。生命の歴史を積極的にみれば、進化という言葉で表現されるし、否定的にみれば、多くの種の衰退という言葉で表現される。強者、優れた者が生き残っていくのだとしても、自然選択の論理が働くのだとしても、どれが優れているか、強いのかの判断は、その時点の環境に対する各生命の適応度でしかはかることができない。弱い者たちを一掃してしまったら、生態系のバランスが崩れるから、強者弱者の定義づけも変更せざるをえない。

人間は自由意志で進化を加速できるけれど、もっともっと強い熟考が必要だろう。考える前に行動しろでは、今の科学技術レベルでは取り返しがつかないことになる。よおく考えてから、技術を行使すること。行動の前によくよく吟味すること。こうしたチェック機構の構築が今後の社会、政治、国際活動に求められる。
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2007年12月24日

M-1グランプリから分析する文化の生存競争

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by G-Tools , 2007/12/24



年末には毎回M1と呼ばれる漫才日本一を決めるテレビ番組がある。M1の優勝賞金は漫才の賞としては破格の一千万円である。M1以前にも、関東関西には権威ある漫才賞が数多くあったが、M1誕生以降、漫才の賞といえばM1が一番権威あるものとなった。一千万円という高額の賞金が、それを可能にしたかのかもしれない。何故M1が漫才賞のトップに立ったのかの理由を解明してみよう。単なる時流におもねた受け狙いの論評と成り下がるのでなく、M1の分析を通して、新しい知を創発させてみたい。

他の漫才賞レース番組を見ても、M1ほどには会場が盛り上がっていない。M1には有名スポーツ選手や一般芸能人等が客として観にきている。

M1にはゴールデンタイムの民放キー局番組にふさわしい司会者、自身がかつては漫才の頂点に立ち歴史を作っていた審査員が揃っている。他の漫才大賞では、よく知らない年輩のお笑い評論家などが審査員に加わっている。

二〇〇七年のM1では四千組以上の応募があったという。このレース参加人数だけを見ても、M1に人気が集中しているのがわかる。量は明らかに質を作り出す。四千組参加したうち、本番放送には、敗者復活の一組含めて九組しか出場できない。〇.二パーセントの確率で現れた漫才師が面白くないはずはない。彼らは過当生存競争の勝利者なのだから。しかし、実際決勝戦では、九組のうち半分以上はそれほど面白い漫才を披露しないで終わる。会場当日の緊張感が準決勝までは面白かった漫才をだめにしてしまうのか、あるいはゴールデンタイムの笑いのレベルは、四千組中残った九組でも届かないほど高いものなのか。合理的説明として最もなのは、どんな優秀な人材を集めて組織を作っても、組織の中で優秀な者は二割だけに限られるという組織理論だろう。これはたとえ優秀な遺伝子を選別して社会を創ったとしても、選別された集団内で更なる優劣が生じるという現象を予言させる。げんにM1でも九組中腹を抱えて笑える程面白いのは四組程度、優勝決定戦に残るのは三組のみである。さらに、優勝決定戦においても、最強のはずの三組全てがまた面白い漫才をするわけではない。優勝する一組のみが、決勝、優勝決定戦の二回連続で面白い漫才をできる。

勝ち残る漫才師たちのスタイルは近年とみに多様化している。前衛的な芸風、早いテンポでたたみかけるもの、体で笑わせるもの、ゆったりした間でじわじわ笑わせるもの、ツッコミのないWボケ、王道派、戦略は多種多様である。何を基準に評価したらいいのか、素人目にもわかりにくい勝負で、高得点を稼ぐ組は、決まって完成度の高い漫才をしている。

勝つ組は、安定性が高いのだ。万人に受ける笑いをしている。テンポ、間、四分間の緩急構成、盛り上げ方、ボケとツッコミのバリエーション、独創性、どれをとっても完成度が高く、マイナス評価をつける隙があまりない。賞レースの場でも、ワールドカップでも、野球オリンピックでも、実力が拮抗する者同士の戦いとなるから、ちょっとしたミス、マイナス評価が勝敗を左右することになる。すなわち、一芸に秀でた特殊能力者の組よりも、漫才の組み立てに必要とされるあらゆる技能において、短所なく高い能力を発揮する組が、優勝しやすい。二〇〇七年の大会でも、優勝決定戦にすすんだ上位三組は、スタイルは異なるが、漫才の基本技術においてはどの組も高い技術を誇っていた。そして、会場の笑いをもっとも受けた組が、最終的に一千万円という高額賞金を手にした。

M1は他の文化生存競争と同じく、優勝賞金を元に、高度な芸術競争が繰り広げられる舞台だ。高額の優勝賞金と高視聴率が、参加希望者を増大させ、競争率を加速させている。お笑い好きの視聴者としては、大笑いできるプロの技を堪能できるため、誰が勝利するのか予想しつつ見るという楽しみとあわせつつ、年末の恒例行事となっている。さて、問題はこのような過度の生存競争は自然なものかという点である。

自然において四千組中、たった九組か一組しか生き残らない競争は、実に過酷なものである。魚類の産卵時などは、大量に放出された卵のうち、実際魚として生育していくのはほんのわずかだが、少なくとも哺乳類においてはこのような過酷な生存競争は見られない。人間は社会の近代化が進むに連れ、どんどん一人当たりの出産人数を減らしてきた。まあ人口は地球生命史上ありえないほど爆発的に増え続けているのだけれど、霊長類の先端にある人は、大量の子ども作らずとも住む平和な社会組織の構築に勤めてきた。そんな彼らが何故か文化競争においては高レベルな競争を好むようになっている。

プロの場における、日本一、世界一を決める競争は過酷過ぎる。そこまで過酷な競争を勝ち抜いて、生存競争のトップに立つことには、たいした意味はない。生存競争においては、環境に適応して、とりあえずの勝利者になっておくだけでいいのだ。最大限に環境適応した勝利者は、その環境内では利益を甘受できるだろうが、環境変化に堪えられる保障はない。そこまで絶対的な勝利にこだわることに、何の得があろうか。賞金か。人気か。名声か。一千万円という大金は、生存という生命の目的にはたいして必要なものではない。漫才という場で、勝利者でい続けるためには、ただ漫才をし続けているだけでよいのだ。漫才をやめずに続けている人だけが、その時点での生存競争の勝利者となる。

草野球とプロ野球は違うという。草野球は自然に見られる生存競争に近い。プロ野球の高度に発達した技術の対決は、自然には見られない、文化的技巧の極致だ。ひょっとしたら人という種は、過度の競争を歓迎する性質を持っているかもしれない。他人が織り成す過激な競争を見ることで、人は喜ぶ。まず自分が参加していないから、競争を気楽に見て楽しむことができる。さらには、競争を見ることで、自分自身あのような生存競争に直面したらどう振舞うべきか学習する効果も期待できる。

古来、過激な競争をする人々は、市民にとっての見世物に過ぎなかった。ローマではコロッセウムで奴隷の剣闘士たちがローマ市民を楽しませていた。スポーツ競技の参加者や、演劇俳優、小説家、音楽などは、古来より、市民や貴族の生活を楽しませる、下等な役割しか与えられていなかった。近代以降、彼ら生存競争の何倍も激しい競争に参加を余技なくされてきた文化従事者は、市民よりも高い地位を得るようになっていった。市民は相変わらず彼らの競争に熱中した。人気者である彼らには、多額の財産ができるようになっていった。パトロン制度が廃止になり、彼らの主人だった貴族は滅びた。彼らはパトロンのかわりにスポンサーを自分の主人に選んだ。大企業は国民に人気がある文化競争の従事者を広告宣伝に利用しようとする。文化の競争者たちは大衆の人気を企業から得られる収益に変換して、一般市民よりも高い地位と財産を手にするようになっていった。

文化競争の従事者たちは、企業や国民に踊らされている過当競争の犠牲者なのだろうか。いや、実情は異なる。近代以降、全ての市民が過当競争に参加するようになった。産業革命によって重労働は熱力学や電磁力学で動く機械が担うようになったのだから、市民は自由時間をより謳歌するようになると考えられたが、実際の歴史では、時間はより小刻みに、切迫したものになった。人々の時間は、産業革命の進展と共によりせわしないものになり、文化がもたらす生存競争も過酷なものになった。科学技術が生み出した軍事兵器は、ナポレオンの時代の戦争よりも多数の死傷者を生み出すようになった。まさしく人類は二〇世紀はじめ、未曾有の競争時代に突入したのだ。グローバリゼーションは競争と生態系の破壊を世界規模で加速化しているようである。コンピューターをはじめとした情報技術の発達により、人間が行う作業はますます少なくなり、人々は哲学者のごとく自由な精神的活動に従事するようになると理想的に想われていたが、実際は情報技術の進展にともなって、人々の生活はさらに圧迫されるようになった。技術進化はますます高速化し、情報量も増大していった。人々は記憶しきれない情報をメモにとることさえやめて、自身のパソコンやインターネット上に情報を記録するようになった。情報は今でも人口爆発以上のペースでサイバースペース上で増え続けている。そう、過当競争に参加しているのは、テレビで一千万円の賞金を争う漫才師たちだけでなく、近代社会で働き生きている私たち市民全てなのだ。

この競争の加速性に意義はあるのだろうか。競争のテンポが高速化することで、進化及び自然淘汰のスピードも上昇する。他の国が文化と技術を進化させているのだから、自分たちの国も情報技術発展に追いついていかないと、そのうち世界経済の中心から落第してしまう。このような不安を抱えて世界中の国々の競争参加が、さらに競争の速度を加速化させている。現在の世界経済にみられる過当競争は、M1の優勝争いに等しい高度で高倍率の競争なのである。

生存競争はテンポをあげているけれど、この生存競争において勝利者でいるためには、別に進化の最先端を突っ走る必要もない。中心から少し遅れた部分で、一緒に進んでいけばいいだけだ。経済環境の激変は続いているが、環境になんとか適応して生き延びることは可能である。生存競争で生きていくためには、末永く生きていくこと、後代に遺伝子を残していくことを考えればいい。時間と情報の洪水にあくせくして、自分を打ち滅ぼす真似だけはしない方がいい。
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2007年12月23日

遺伝子の利己主義、千の風になっての死生観と現代科学の死生観

銃乱射事件は一週間もしないうちにテレビに取り上げられることはなくなった。一年に一度起きていたような重大事件が頻発するようになったが、テレビの情報量も増えている、衝撃的ニュースは一週間以内に消化されてしまう。人々の興味は一週間以上持続しないのだろうか。事件に遭遇した人たちは、新しい日常を送っているだろうが、一週間程度では心の傷は癒えないものだ。ニュースは一週間程度の興味関心しか呼び起こさないが、事件は何年にも渡り深い傷跡を残す。

自分のために行動する人は、利己主義者だが、七代後の孫の幸せを想って行動する人は、利他主義者にうつる。彼らは社会の平和的発展を願うし、個人的欲望にしたがって快楽をむさぼることもない。私は七代後の孫の幸せを願いながら、毎日を過ごした方が、気分よくなる。無駄な力も抜ける。やることが少なくなって日々の生活が快適になる。利他主義の方が人を幸福にするのだろうか。

しかし、遺伝子の単位で考えれば、七代後の孫のためを想って行動する人も、自分ひとりの幸せを願って生きる人も、共に利己的遺伝子の保持者となる。むしろ、七代後の孫たちのために行動する人の方が、遺伝子レベルでは、利己的欲望が強いと考えられる。

遺伝子が、七代後まで残るように毎日行動している人は、子どもなんていらない、自分だけ幸せであればいいと考えている人よりも、明らかに遺伝子を残そうという意志が強い。七代後の社会のことを考えつつ生きる人の方が、遺伝子的にみればエゴイスティックで強烈な欲望の持ち主となるのだ。

七代後の孫たちのことを考えて生きる方が、幸福感が増すように感じた原因は、遺伝子単位で考えると、こういう説明ができる。私の細胞一つ一つで息づいている遺伝子もまた喜んでいるのだ。彼らは私が死んだ後も生き残りたいと想っている。彼らと言っているが、彼ら遺伝子は私の核でもあるのだ。

かといって、遺伝子即私というわけではない。私は遺伝子が伝えた情報以外に、様々な文化的、環境的情報を得て生きている。私の意識は、遺伝子が伝えた情報以外の様々な情報を摂取しながら、毎日悩み、楽しみ暮らしている。文化生活を送っている私にとって、遺伝子は日常でそんなに意識するものではない。顔を見たり、性格の根本を意識する時、両親から伝わった遺伝子を意識するくらいだ。

文化はどんどん個人主義的になっている。次第に子どもを産まない選択肢も、家族を形成しない選択肢も一般化してきている。「千の風になって」という歌がある。紛争が続く地域で生まれた詩は歌となり、世界中で愛聴されるようになった。日本でもクラシック歌手による日本語訳の歌で、クラシックでは異例の百万枚を超えるセールスを記録したという。

クラシックで百万枚を超えるということは、音楽の生存競争の観点からして考えられないほどの圧倒的勝利である。なぜこの歌がそこまで多くの人に支持を得たのか。私は墓の中に眠っているのではない、千の風になっていつでも貴方の傍にいるという永遠の絆を語る詩が、人々の共感を呼んだのだろうか。

「千の風になって」で語られる死生観は、ケルト的世界観である。人間の魂が自然に息づく精霊にもなるという死生観は、死んだら魂が天国か地獄に行くというキリスト教的死生観とも、死んだら個人の肉体も意識も滅ぶという近代科学的死生観とも異なる。ケルトの死生観は日本人がかつて持っていた死生観にも近い。世界の多くの民族はかつて、死んでも霊魂は滅びないという観念を持っていた。近代社会はそうした観念から離脱した世界観をもとに成立しているが、「千の風になって」のような曲は、多くの人々に安らぎをもたらす。

近代社会の生存競争はきついのだろうか。「千の風になって」で語られる世界の方が、死ぬこと、生きることに希望をもたらすだろうか。数々の紛争や凶悪事件で亡くなった人たちも、生きている人たちの傍で息づいているだろうか。

死んだら霊魂も肉体も滅ぶという死生観は、しかし、遺伝子の仕組みをよく知らなかった近代科学の死生観である。私の肉体と精神が滅んだ後でも、私の遺伝子は、私の子どもの中で残っている。また、私が子どもを産まずとも、私の兄弟姉妹、親戚の中に、私と同じ遺伝子が息づいている。さらには、人類全体の体の中に、アフリカで五万年前に生まれた現生人類共通の遺伝子が息づいている。これが、現代科学のもたらした新しい死生観である。私の肉体と精神が滅んだ後でも、私は別の場所で、愛する人たちとともに生き続けるのだ。

人類と言う種の保存のことだけを考えれば、このような死生観となるが、そもそも七代後まで人類が存続するためには、人類以外の生命全体の遺伝子についても適切な配慮が必要だ。そう、近代人は、他の生命、さらに言えば地球という生態系に対する配慮が著しく欠けていた。地球という生態系が激変すれば、人類の存続も危ぶまれる。最近になってようやく多くの科学者が、気候変動問題に深刻に取り組むようになった。

遺伝子の保存が、遺伝子を持つ生命の存在理由だとすれば、他の種の存続は、自己の遺伝子を残すという目的に従属する限り、望まれることに過ぎない。しかし、人類以外の生命全てが絶滅してしまっては、人類は確実に生き残ることができないのだから、生命多様性の維持は、霊長類の先端を行く人類に課せられた重大な使命なのだ。

あらゆる生命の遺伝子が利己的であっても、なぜ地球環境がこんなに生命で多様なのか。なぜ生存競争の結果、一つの圧倒的に強い種だけが生き残る結果にならなかったのか。大平原には百獣の王たるライオンだけが存在しているわけではない。チーター、シマウマ、キリン、ゾウ、ハイエナ、草木、虫、たくさんの生命が共存している。

人類はライオンにならって、食糧の過剰摂取をあらためる時期に来ている。今までさんざんライオンになる必要はない、生存競争の場ではシマウマやハイエナでいるだけで十分だと書いてきたが、ライオンこそは、我々が見習うべき、生態系の頂点に存在する生命体の模範なのだ。
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2007年12月22日

エゴVS利他的思考

一週間の仕事が終わった。明日から三連休だが、明日も会社で仕事はする。それでも私の本当の仕事はこうしてブログで毎日書いていくことだ。収入は発生していないけれど、自分にとってはこっちの方が重要な未来に向かう仕事だ。

何故こんなに疲れたのか。体中痛いし、風邪も2週間近く治っていない。七代後の孫たちのことについて考えるのをやめたせいだと思った。自分のことばかりで悩んでいる。仕事のこと、将来のこと、クリスマスどうするかということ。エゴのことばかり。エゴについて考えることは、種の保存につながる。私が精一杯生き抜こうと創意工夫すれば、私の孫が7代後にまで続く可能性も芽生える。しかし、自分の幸せなり満足のことだけを考えて生きていくのはむなしい。

まだ生まれる可能性しか持っていない7代後の孫たちのことを考えると、なぜこんなに心が安らぐのだろう。利他的行為というか利他的思考をするだけで、体の痛みがとれ、書く意欲も芽生えてくる。
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2007年12月18日

一番になりなさいとう強迫命令を繰り返す文化

インターネットにおける創作活動は、ただ単に更新できたというだけで、生存競争に生き残ったと宣言できる。実際の生命系における生存競争とはそれくらい心温まるものなのだ。新人賞の生存競争は彗星が落下した後、火山が爆発した後くらいの絶滅必死の生存競争だ。何せ一人しか生き残らないのだから。

そう、一番にならなくてもいい。一番になりなさいという強迫命令は、教育の世界に根深く残る悪魔のささやきだ。これは自然法則に反している。だから、多くの人が一番になろうとして、もがき苦しみ、体を壊し、悲嘆にくれている。生物の世界において、一番になる必要はない。生物にとって必要なのは、環境に適応すること、それだけだ。環境に立派に適応できていれば、環境適応度が一番だろうが何番だろうが関係ない。逆に、現在ある環境系に適応しすぎた種は、環境が変化した際、生き延びる確率が低くなる。現在ある環境に完全に適応してしまうことは、種の保存という生命活動の目的にとっては、リスクが高すぎる賭けなのだ。

多くの教育者は、一番になりなさいという。声を大にして繰り返そう。
 一番になることはたいして意味がない。むしろ危険である。無意味な活動に取り組むことは、生命を磨耗させるし、環境に一番適応した生物は、融通がきかなくなるからだ。

昨日の夜このことに気づいたら、今日は給に体の動きが緩慢になった。ビジネスマンっぽい体の使い方とは、常に戦闘態勢であり、心身に実によくないと気づいた。何も一番にならなくていいのだ。私は心理学でタイプAと呼ばれる強迫障害から脱することができたように思える。一番にならなくてもよい、ただ単に環境に適応できるよう、気ままに暮らしていこうと思ったら、実に心が優しくなった。

むしろ通勤電車に乗る疲れは増えた。体は重くなった。今まで我慢していた全身疲労が一気に表に這い上がってきた感じがした。それでも夜酒を飲んで笑いあったら、体はまた安らいだ。私が気づけていなかっただけで、多くの日本人は一番になろうとせず、毎日人生を楽しみ、気楽に生きているのかもしれない。それでいいのだ、というよりその方がいいのだと、ダーウィンに背中をさすってもらったような気がする。

一番になりなさいという強迫的命令は、文化活動のいたるところで見られる。一番で無ければ気がすまない? これはおかしい。生存競争でトップに立つことは、たいして名誉あることではない。
 

多くの企業は、業績を上げようと努力している。しかし、そんなに業績を上げることが必要か。ただ単に環境に適応して、末永く生き延びていく企業こそ、生存競争に強い企業と言えるのではないか。
 学問を突き詰めていくと、精神と背骨がまいってくる。脊髄神経系を使いすぎるためだ。学問の中で閉じこもるのでなく、社会で暮らし生きている多くの人々のためになる学問をしなさいという命令が昨夜眠れない時間に降りてきた。

どんな最新理論でも、多くの人にとって有益とならねば考えていく意味がない。何故新理論が、多くの人にとって有益となることができるのか。既存の広く社会に行き渡っている理論が、現実とあまりに乖離しているため、人々が疲弊している時、より現実に即した理論の登場は、多くの人々を慰めることになる。

一番になることにはたいして意味がない。生存競争なり市場競争なりの尺度はたった一本の尺度ではかれるものではない。競争の尺度は何本もあり、勝者もまた無数にいる。多様な勝者を生み出すことこそ自然の営みだ。ただ一人の独裁者によって支配される世界は、すぐに活力を失ってしまうだろう。自然は多様性と安らぎを愛する。焦らないことだ。何年もかけることだ。変化は急激には起こらないものだ。
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2007年12月16日

文化と繁殖、進化論、生命多様性、市場競争、新自由主義の過ち

風邪がなかなか治らない。自分を振り返る過程で問題が見えてきた。睡眠時間が少ない。ストレスが多い。冷たい飲み物をたくさん飲んでいる。体を横にして眠っているため、背骨が曲がっていく。治そう。

喫茶店ではいつもアイスラテを頼んでいたが、今日はホットのカフェラテを飲んだ。体も心も温まるという詩的表現はまさに自然科学に適している。皮膚と心は同一なのだ。内臓を温めるものを飲めば、神経もあたたまってくる。すると心も休まる。

今テレビではライオンが交尾する映像が映し出されている。メスライオンはオスが後背位で上に乗ろうとするたびに、ぱっと身を翻して、逃げる。そしてまた地面の上に寝そべる。オスがよる。そんな戯れなのか駆け引きの繰り返し。

自分は結婚すべきだろうか。子どもを創るべきだろうか。愛の結びつきが眼前に存在すれば、そんなことで哲学的に悩む必要はないだろう。多くの人は哲学的に考えず、多くの人がやっているから、社会がそうと定めているから、あるいは気持ちいいから、好きだからという理由でセックスをし、子をもうけている。生殖について考えないですむ社会は幸せだ。人は考えないで済ませることができる時幸福かもしれない。何故だろう、何故そうするのだろうと考えることは苦しい。考えていると脳とつながっている脊髄が痛んでくるが、考えずに性を楽しめば、体の前表面が喜んでくる。

深く考えず性の契りを結んで遺伝子を残すことは、本当に必要なことなのだろうか。昔の社会では必要だったろうが、現在の東京では必要ないかもしれない、というか必要性をあまり見出すことができない。かつての血縁社会では、自分たちの一族の子孫を残すことは、一族にとって重要なことだった。今は実力社会だ。私がとりわけがんばって子孫を残さなくても、他の人が残した子孫が、優秀になって、社会を引き継いでくれる可能性がある。実力社会の浸透は、繁殖の必要不可欠性を人類から剥ぎ取る。

繁殖する代わりに、私は文章、思考の足跡を記録する。文化の伝達は、繁殖より偉大な行為だろうか。生物学の価値観では、元来文化活動による伝達よりも、遺伝子による伝達の方が重要だと考察されてきた。遺伝子が持つ情報の中には、私が創造した文化的活動の功績は引き継がれていかない。遺伝子は一世代程度の文化的発展は引き継がない。ただし、人間社会を見る限り、文化や社会が人の人生に与える影響力は、遺伝子よりも高いように思える。ソクラテスやプラトンやアリストテレスなど偉大な学者たちが繁殖によって生み出した子孫よりも(そもそも子どもを残していない学者も多いが)、彼らが考察したことどもの成果である書物の方が、人類に多大な影響を与えてきた。文化や創作物は、遺伝子よりも強い影響力を持つのだろうか。もう子どもを創らなくてもいいのだろうか。

繁殖行為には強烈な快感がともなう。神の動機づけ。しかし、創作活動の真っ最中や、宗教的神秘体験、ビジネスの間においても、性交の際よりも強烈な快感を得ることができる。快楽が指し示す方向に集中すれば、人類は幸福になるが、強烈な快感ばかり体験していては、次第に感覚が麻痺して中毒症状が起きてくる。快楽だけを追い求めると、人は壊れてしまう。

人間が作り出す書物、言葉の集積は、生殖による遺伝子の複製保存よりも重要なのだろうかという疑問は、人間が生殖以外の方法で子どもを作り出せないことによって破綻する。神が発明した生殖という技術までに、人間文化はいたっていない。故に繁殖の方が文化活動よりも崇高だというのが、十九世紀的前提だったが、現代科学は、この領域にまで踏み込もうとしている。人工授精、人工生命、遺伝子の究明、これらはまだ序の口に過ぎず、まだまだ生殖の方が上手だ。何せどのようにすれば生命が誕生するかについて、人は知り尽くしていない。生殖以外の方法で自分と同じ知的生命体を生み出すことに成功した時、人類の文化活動は生殖よりも優れたものとなったと認めることができるだろう。 

人体の助けを借りている限り、人工授精を生命誕生の技術だと言うことはできない。人間の体から摂取した精子も卵子も使わずに、人間を生み出すことができるようになった時、そんなことが可能かどうかはわからないが、人間の文化活動は生殖能力を超えたと認めることができるだろう。その時が来るまで、少なくとも人類はセックスし続けるだろう。

さて、いまだ神の技術領域に達していないのだから、私は生殖して子を生んでもよいという結論にいたることができる。しかし、その命題はしてもよいという許可を与えてくれるだけで、生殖するかどうかは私の自由意志による。私は少なくとも、自分の仕事を社会に必要不可欠なレベルまでに高めることができずにいるのだから、もっと仕事を実践することの方が、繁殖するよりも必要なことだと思う。もちろん子を持つことで生命の秘密に近づくことができるのだろうが、私は仕事から財を成すことにまだ成功していない。自然淘汰に負けているのだ。

ここで進化論が頭をもたげてくる。今まで私は進化論に否定的だった。進化論的思考法は優生学や、アウシュビッツ、新自由主義、格差社会を生み出したと思っていたが、ダーウィンそのものの進化論と、優生学は違うことがわかってきた。

新自由主義はダーウィンの進化論と相容れない奇妙な突然変異だ。市場競争によって、勝者と敗者がわかれる。新自由主義は自然淘汰を支持する。強い者だけが生き残ると説く。故に政府すなわち神はあまり市場に介入せず、市場競争参加者、すなわち生命体に自由に競争させている。
 ダーウィンの進化論によく体を沈めてみよう。進化論は強い者だけが生き残ると言っているわけではない。環境に適応したものが生き残るのだ。強い者と弱い者の定義が間違っている。強い者とは、他の生命体全てをなぎ倒す、多国籍巨大企業的動物のことをさすのでない。進化論において強い者とは、環境に適応する能力が高いものをさす。同様に弱い者とは貧困層、負け組をさすのではなく、環境に適応できにくいものをさすだけだ。

ライオンは肉しか食べない。草を破壊しないが、人間社会における多国籍企業は自然環境まで破壊しつくす。ナチスはユダヤ人を絶滅しようとした。強い人種だけ生き残ると考えたが、これは根本的に間違っている。環境にもっとも適応した種は、そもそも一部の種族を絶滅させようなどとは考えないものだ。

生物には多様性が見られる。生存競争とは、誰か一人が勝つ社会ではない。新自由主義的価値観、優生学的価値観における、生存競争の尺度は、一つしかない。勝つか負けるか、どれだけの金を溜め込むことができるかどうか。

実際の生物が行う生存競争には、数え切れないほどのパラメーターがある。ライオンが生存競争に生き残っても、猿もチーターもシマウマも草も生き残っている。生存競争における勝者は無数にありうるし、多様である。生物は多様な方がよい。できるかぎり多様である方が、生命体全体が生き残る可能性が高まる。

市場原理主義と呼ばれる理論においても、市場競争は勝者と敗者を分ける単純な理論だと思われていないかもしれない。市場はつかみどころがなく、変化するものだ。市場の流れに適応した企業だけが生き残っていく。勝者になれる可能性は無数にある。勝者は多分市場競争に勝っても無邪気に喜ばないだろう。市場競争に勝つとは、ただ単に生きていたということだ。生きていた結果、市場競争に勝ったのだと後でわかるだけだ。

市場競争の押しつけは批判されているけれど、進化論的な意味での市場競争は、勝者と敗者を明確にわける技法ではない。本来的市場競争では、勝者と弱者のすみわけが起こる。あらゆる保護を撤廃して、市場原理に完全にゆだねることを新自由主義とするなら、それは進化論的にみて間違っている理論だということができる。あらゆる保護がない市場とは、草も水もない、コンクリートでかこまれた環境だということができるだろう。そんな場所で生きていこうとすれば、平原で暮らしていた動物たちは、環境に適応するため、必死に頭を働かせる必要がある。本来の生命系には、たくさんの生物が共生している。共産主義によるコントロールも、新自由主義によるコントロールの放棄も、自然環境とは異なるものだ。どちらもコンクリートの環境を生み出してしまう。生命がいる環境には、安らぎと食物がたくさん必要だ。
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2007年12月13日

水拭き、清め払い、汚物の浄化

『小説・七代後の孫への話』
text3 住

マンションに帰って、風呂のお湯をためている間、部屋を雑巾で水拭きした。雑菌に弱いため、防護用の手袋をして、雑巾で部屋中の埃をふき取る。ここ最近頭も体もこちこちにかたまって、リウマチみたく痛くてしょうがなかったけれど、水拭きをすると、何故か体も心もすっきりと晴れ渡ってくる。髪の毛やら埃やら汚れ物を水で吸い取っていると、心身まで浄化されるようだ。

部屋を拭いているのではない、心身にたまった汚物をふき取っているのだろう。

これは水拭き特有の現象だ。掃除機を使っても、コロコロを床に転がしてほこりを集めても、こんなに頭と体がすっきりすることはない。床に雑巾を押し付けて動く作業が体にいいのか。水拭きの時が、掃除機やコロコロを使っている時より体を動かしているのは確かだ。

大学五年目の夏休み以降、僕は毎朝起きてから深呼吸をし、ヨガをし、水拭きをしていた。最近全身がめちゃくちゃに痛いので、ヨガをまたやるようにしたが、腰から背中にかけての痛みはとれなかった。それが水拭きをしたらこんなに心身が甦った。ヨガより水拭きの方がきくみたいだ。

水拭きをする気になったのも、七代後たちのために生きようと想い直したおかげだ。七世代後のために必要ないことを僕はたくさんやってきた。彼らにとっては何の意味もないことでうじうじと悩み続けていた。そんな無駄なことを繰り返していたから、部屋を水拭きする時間さえ確保できなかった。忙しすぎるわけじゃない、時間の使い方が間違っていただけだった。

七代後のためを想うと、やることが少なくなる。生活にゆとりが戻る。すると掃除をする時間が持てる。というか、掃除をしようという計画、意志を持つことができた。人生設計の中に水拭きを持ちこんでしまえば、後はすんなり行く。続けることだ。水拭きはヨガや栄養ドリンクより効果がある。

掃除だと想っていたから、めんどくさかったのだ。だいたいにして、学校の清掃の時間の影響で、掃除は面倒臭くかったるいという観念が頭に植えつけられてしまう。水拭きは掃除じゃない。運動だし、もっというと、清めの儀式だ。床を拭いていると軽い運動になるし、心もすっきりする。七代後の孫たちのために、綺麗で住みやすい世界を維持していこう、生成発展させていこうと思えば、掃除をすることにも、大きな意義を見出すことができる。自分のためではないのだ。将来野子どもたちの世界が綺麗で住みやすいものとなるために、掃除をしているのだ。そう想えば水拭きに対するモチベーションが煮えくり返ってくる。
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2007年12月11日

食品不正表示の記者会見で誤らない狼少年の経営者たち

『小説・七代後の孫への話』
text2 食

夜ファミレスに行った。二十二時を過ぎると深夜料金になるから、二十一時半に店に入った。ハンバーグとライスのセットを注文して、午前中買っておいた雑誌を読むことにした。

雑誌の国際記事に集中していたら、すぐにハンバーグとライスが出てきた。いつもなら何も考えず、味覚だけ味わって胃袋に放り込むところだけれど、今日摂取したこの食品が、やがて僕の細胞になるんだと想った。ゆくゆくは、七代後の孫の遺伝子にまで、今日食べたハンバーグが影響を与えるかもしれない。僕はハンバーグとなった牛に申し訳ない気持ちを覚えながら、ゆっくりとミンチになった肉をかみしめた。

僕のために死んでくれて申し訳ないという気持ちと同時に、栄養になってくれてありがとう、しっかり養分を吸収しますという感謝の念が湧き上がってきた。この牛は養育者である人類に食べられるためにハンバーグとなった。僕はこの牛を消費のためでなく、栄養とするために食べることを心がけた。

一口一口に意味が生み出されてくる。ハンバーグについているとうもろこしも、じゃがいもも、大盛りライスも、日替わりスープも、命を持っている。彼らの命が僕の口に入ってくる。命はやがて僕の新しい細胞になる。

一ヵ月後の僕の細胞は、全てこうした僕が口にしたほかの生命体から生じているだろう。

僕は彼らになる。彼らはやがて、僕の七代後の孫になる。

ニュースでは毎日のように賞味期限切れの食品販売が報道されている。よくもまあここまで続くなと言うほど、老舗や有名店で不正表示が行われていることがわかった。何故こんなに告発されるようになったのか。政治家が大企業の利得のためでなく、一般消費者の利益のために動くようになったから、こうして相次いで企業の不祥事が明るみに出るのだろう。

昔なら、大企業からの組織票が期待できた。今はみんな自由で個人主義的だから、組織票は期待できない。むしろ多くの若者がそういう風習ってうざったいと想うことだろう。

また、大企業から利権提供を受けていると、やれ接待だ癒着だとさんざんバッシングされるようになった。故に政治家は大企業の既得権益から離れて、今まで切り捨てていた消費者に向かう。セールスから顧客へのマーケティングの大きな流れが、政治家にも広がったわけだ。

自由で組織的に行動しない現代日本人から票を集めるためには、一人一人にとって直接利益になる行動をして、アピールしていくのが効果的だ。故にどこの国の政治家も、イデオロギーを主張したり、政策を論議するのをやめて、有権者の日常生活のためになる工夫をせっせとするようになった。政治の庶民化。

この流れによって、消費者を欺いていた食品会社が告発されることはありがたいことだ。消費者は無知だから欺いてオッケーと企業人たちが想っているなら、消費者はもっと狡猾になる必要があるが、クレーマーにだけはなりたくないと想う。気になるのは、毎回偽装表示で記者会見を開く企業経営者が、私の指示ではない、現場が勝手にやっていた、知らなかったと言うことだ。そしてまた操作が進むと決まって、経営幹部の指示による組織的犯罪だったことが明るみに出る。誰もが最初に嘘をつくから、また嘘ついてるんだろと想ってしまうようになった。不正を起こす企業の経営者はみんな狼少年みたいだ。

記者会見の場で同席していた経営陣に促されて、謝罪をはじめた経営者もいる。七代後の孫たちがこのニュース映像を見たら、おじいちゃんおばあちゃんたちはなんだか不可思議なことで困っていたんだなと笑うことだろう。

食品というよりも、目の前にある料理一つ一つを大切に、慈しんで食べていたら、こんな不祥事も続発しなかっただろう。感謝しながらゆっくりと味わって食べたら、そもそも大量の食品なんていらないし、エンゲル係数が高くなって今の僕みたいに困ることもない。

ここにある食事は七代後の孫たちが生まれるために存在しているんだ。

僕は栄養を尊ぶ。
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2007年12月09日

text13 7代後の孫たちのために生きてみる

どんなコートを買おうかとここ1ヶ月くらい迷っていた。土曜日の朝、やはりこんなことで迷うのは頭によくないなと想った。7代後の孫たちのためを想ってみよう。祖先がどんなコートを着ていたかは、たいした問題ではないのではないか。

もちろん祖先が温かいコートを開発する技術を持っていることは、7代後の子どもたちのために重要だが、どんなデザインの、いくらくらいのコートを買おうかと1ヶ月近く悩むことは、子孫たちにとってはなはだ不要なことだと想う。もちろんそうしたことで悩めるのは、日本が平和だからだ。これはありがたいことだけれど、せめてその平和を、7代後の子どもたちのために、もっと有意義に利用したいと想った。

7代後の孫のことをいつも想いながら暮らせば、今僕が感じている葛藤のほとんどは発生しないだろう。だいたい自分自身の小さなエゴの問題で葛藤しているだけだ。近代的個人意識は必然的に葛藤を発生させる。大きな規模で人類の幸せを願っていたら、個人的な葛藤など霧程度の意味しか持たないだろう。

もちろん個人の自由の確保は大事だけれど、大きなことを考えてみれば、エゴのために使うお金は不要となる。もっと大きなことのためにお金を使いたい。お金は普遍的な万物の尺度になりつつある。ならば有意義なことに投資しよう。個人の悩みは最小限におさえて、7代後の孫たちの幸せのために生きてみたい。
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2007年12月03日

text7 そしてまた人文科学に舞い戻り、未来の倫理に想いを馳せる

自然科学と人文科学の領域における知の発展を報告し続けること。この仕事は長く厳しい。自分には科学や数学の知識というか技術が圧倒的に足りない。今から学んだところで手遅れではないのか。人間の学びに限界などないが、ひねくれて自然科学に近づくのはやめて、人文科学の領域に舞い戻ろうかと悩んだ。結局問題なのは、自分自身だ。敵はライバルではなく、プレッシャーや困難に直面して弱くなる自分だ。自分自身に打ち勝つことだけが求められる。社会とか政治とか経済とか環境は関係ない。自分自身の心との闘いだ。

私は人文科学の領域で直面した困難から逃げるために、自然科学の知を漁ることを選んだ。確かに今まで既知の問題にばかりあたっていたから、つまらなかった。最先端の科学の成果は、知らないこと、驚くことばかりで知的刺激に満ちていた。それでも本気で、天職として万物理論に取り組もうとすれば、かつて自分が直面した複雑で解きがたい問題と再度ぶつかることになる。自分はおそらくそこからまた逃げ出すことだろう。ならばおとなしく、人文科学の領域でやっていこう。どこまでも妥協せず突き進む覚悟が必要だ。今まで負け続けていただけだ。認識が甘いのだ。

昨晩週刊ブックレビューを見た。火星探査のノンフィクションのレビューでは、アメリカは国家規模の研究プロジェクトにおいても、複数の研究者に競争させ、最も安く、かつ効率的で、かつ成功の見込みがあるプロジェクトのみ実行することがわかった。火星探査にまで市場原理が働いているのだ。市場原理とは実力主義だ。そして、インターネットは極度の実力主義社会だ。社会でもないかもしれない。顔も性別も年齢も国籍も関係ない。市場原理に打ち勝つ実力さえあれば、頂点に立つことができる。インターネットは市場経済の原理から無縁な自由と平等の楽園であるかのようだが、その内実は極度の市場原理社会だ。

ロシアの選挙はプーチンの手でゆがめられているというニュースがかけめぐる。何故政治家は不正を行うのだろう。手にした権力、支配欲、性欲、暴力の掌握が気持ちいいからだろう。いくら人文科学や自然科学の知が発展しても、現実の政治や企業活動が欲まみれで堕落していては、人類に未来はない。自分の仕事とは、自然科学と人文科学という枠組みだけでなく、人類社会を基礎づける倫理について考察することではないのか。そちらの方面なら複雑極まりない数式や長大な計算をこなすよりも、自信が持てる。私は数学が嫌いだったけれど、仕事では数字に関連する仕事が多かった。パソコンも嫌いだが、パソコンを使ってばかりいた。これは数学とパソコンにまつわる何らかの運命の暗示だろう。私は数学とコンピューターが切り開く人類の未来に目をはせつつ、社会にうずまく欲望を解決する手段を考える道を歩む。今まで敗北し続けてきた。それを認識した上で、意義のある仁の領域に踏み込むこと。ただ愛だけを求めなさい。
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2007年11月28日

テクスト(4)隣接する別次元の観察記録2

お婆ちゃんと孫二人が行方不明になっていた事件が解決した。三人の死体と親戚の犯行。予想された最悪のシナリオ。防衛省の守屋前次官も予想外に妻と一緒に逮捕された。守屋次官も、供与疑惑を抱かれている現職大臣の顔も、なんだか見た目が悪くかなしくなってくる。現代は政治家においても外見のよさが求められる印象の時代だ。外見よりも政策を、内実を評価して欲しいと思うが、実際、不正をおかした政治家の顔がどこにでもいる普通のおじさんの顔だと、やはり美しい顔立ちの政治家の方がよいと思えてきた。そんな自分が恥ずかしくなった。

守屋前次官逮捕直前のインタビュー映像がニュース番組に流れた。疑惑を抱かれていた頃、守屋氏は不遜な顔で取材陣を邪険に扱っていた。あの硬直した顔は、結婚決定前のプリンセスマサコの厳しい顔つきを想起させた。結婚後、プリンセスの顔は皇族らしく微笑ましくなったが、インタビューを受けている守屋氏も、諦めの境地となったのか、実に穏やかな顔つきで、自分の非を認める発言をしていた。弱々しげに己の非を認める彼の姿を見ていると、今まで抱けなかった彼に対する愛着の念が沸き起こってきた。顔の造作よりも、テレビ画面の向こうに居る人に対して、どういう態度で接するかの方が、好感度を左右するのではないかと推測された。顔が悪い人でも、こちらに友好的な態度を見せてくれていたら、その人の顔は好ましいものに思えてくるのではないか。逆に、顔がよい人でも厳しく拒否する態度を前面にあらわしていたら、その人に対する嫌悪感が沸き起こってくるのではないか。顔の作りそのものが受容者に伝わるのではない。受容者の心象によって、見ている顔の造作まで変わってしまうのではないか。逆に言うと、相手によくみせようと努力すれば、顔の作りの悪さを補えるのではないか。これは印象操作と呼ばれる技術ではないだろうか。

現代政治は印象操作の時代だろうか。少なくともテレビメディアはそうなっているし、多くの広告も印象操作を駆使している。何故多くの人によい印象を与えたいと思うのだろう。好印象を与えることができれば、相手から友好的な見返りを求めることができるからだろうか。豊かさを享受したければ、コミュニティーの中でよい印象を与え合う行為を行えばよい。豊かさを脅かす脅威に対しては、親善関係を結ぶか、威嚇し返すかすればよい。守屋氏は逮捕前、テレビに対して威嚇し続けていたが、逮捕の運命が避けがたいものとなると、テレビの向こうにいる私たちに向けて、親愛の情を差し伸べてきた。彼は防衛省の中のシビリアン・エリートだった。シビリアン・コントロール。印象のコントロール。
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2007年11月27日

テクスト(3)隣接する別次元の観測記録

三連休の初日に天職を見つけた。

人類が抱える大きな問題を解決するセオリーについての思索こそ、私の仕事ではないのか。グランドセオリーに思考を触れずに過ごす時間は、人生の無駄にも思えるが、それは休息なのだろう。

それにしても連休明け会社に行くと、何故ここで仕事をしているのかつくづく疑問に思う。

ここは私のいる場所ではない。しかし、私は一般的オフィスで働いている。

なぜか。

私が真剣に仕事を選び取っていなかったからだ。

生活のため、見栄のため、他の人がそうしているから、流れにのって、エゴのため、自己満足のため、私はおざなりの場所を選んだ。

心の内では真実に沿った仕事をしようと思いつつ、毎日私は偽物の仕事に時間を捧げていた。その仕事は私が関わる人たちに喜びを与えるかもしれないけれど、私はより大きな問題に自分の人生を注ぎたかった。

こんな風に後になって言ってもむなしいだけだ。実のところ私は仕事を打ちたてようと努力するよりも、人気を得ようと無駄に文章を書き散らすことの方が多かったのだから。

今私は真実の仕事を見つけた。これは文学でも哲学でも物理学でもない。科学哲学とは呼べない。科学の哲学ではないのだから。哲学的科学、いや哲学科学だろうか。哲学科学という言葉はなんだか子どもだましみたいでいけ好かない。万物を基礎づけるデカルト、ライプニッツ的な哲学の構築。それは形而上学ではなく、存在の語りに耳を傾けることでもなく、より近現代科学的な、厳密な思考の積み重ねとなることだろう。

何故ここで働いているのかという煩悶が大きかったけれど、いざ昼の仕事にまきこまれると、グランドセオリーのことなど忘れて、ビジネスライクな仕事に思考がからめとられてしまう。夜ともなると、はたしてひも理論と量子情報理論と余剰次元の理論の成果を人文科学の領域に拡大できるのかという私の考察は、頭のどこか深い奥に消えてしまいそうになっていた。

電車に乗って読書している時、私の思考はまた真実の仕事に戻っていく。それでも仕事の疲れで体は痛くなり、頭は働かなくなる。なんとかして、心の集中力を維持する必要がある。グロタンディークや神谷美恵子やアインシュタインやカフカや多くの先人たちに続けるように、私は働きながらも思考の鋭敏さを磨き続ける必要がある。まだまだ足りない。もっともっと鋭敏に、注意深く、大胆極まりなく。

ニュースを見れば、郵便局に強盗があらわれたという。女性を切りつけ、道路に出れば、通行中の男性や郵便局員に重傷を負わせ、電車に乗っても暴れ、結局強盗は捕まった。とんだ馬鹿ではないかと思った。すぐに捕まった彼は、刑務所から出たばかりでどうしたらいいかわからず、強盗を働いたという。そう、強盗でも仕事なのだ。

仕事は社会学的概念であるし、熱力学の概念でもある。男は強盗という仕事をした。市民の体を傷つけ、逮捕され、ニュースになった。また日本で馬鹿馬鹿しい事件が起きたというニュースを男は作り上げた。そして私はそのニュースをテレビで見た。男の危なっかしい仕事は電磁波となって、私の部屋にまで伝わってきたのだ。

私は心にニュースとなった男の仕事を受け止めた。そして今、ブログにこうして男の仕事について記録している。

彼の仕事の成果は何か。被害甚大。何も生み出していないように思えるが、熱力学保存の法則は働いている。男が仕事をした結果、今までの人生において男と全く無関係だった私のもとにまで男の情報が届いた。

男の情報は今日ニュースを見ていた多くの人に届いたことだろう。私の仕事は彼の仕事とは圧倒的に異なる。男の仕事はニュース情報となり、私の仕事はまだ何も生み出していない。

男の情報はもうあさってには忘れられるだろう。男の残した情報のレベルは、男がかつていた日常のレベルにまで低下する。彼が再びテレビに現れる確率は少ない。私や多くの人には無限大の確率が残されている。神はさいころを振らないのか、振るのか。
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2007年11月26日

テクスト(2)自然科学と人文科学と哲学との関係

古来哲学は人間活動及び自然の営み全てを基礎付ける学問だとされてきた。しかし近代以降ともなると、哲学はその役目を終えて、極小的な問題を扱う一学問になりさがった。哲学の変わりに、近代になって隆盛した物理学や生物学が自然の神秘を解き明かした。また人間の活動については、経済学、社会学、人類学など同じく近代になって隆盛した学問がかつて哲学が担っていた役割を負った。宇宙や自然の成り立ち、仕組みは現代物理学が研究し尽くそうとしている。超ひも理論は大統一理論と呼ばれる。まさしく物理学は哲学のかわりに、全ての基礎づけをしようとしている。しかし、物理学が基礎付けるのはあくまで自然に発生する物理現象であって、人間社会の営みの細部まで基礎付けることはない。

もちろん人間の知的活動、社会活動もまた素粒子の振動によって生み出されるものであるから、物理学が生み出すだろう大統一理論によって説明されもしようが、終局のところ人間活動の細部は物理学によっては説明し尽くしえない複雑さを持っている。そこで今度は人文社会科学が人間活動を基礎付け、研究するのだが、翻って今度は人文社会科学の学問によって、自然科学の減少を説明することはできなくなる。これは大きなパラドックスである。自然科学と人文科学、全ての学問を基礎付ける大統一理論はないのだろうか。そのような大統一理論は単に学問を基礎付けるだけではすまない。人間の営み、自然の営み、全ての現象を基礎づけ、かつ人類が進んでいくべき未来の方向に指針を与える理論となるだろう。古来哲学はそのような大統一理論について語り、研究する場であった。複雑さが増した現代では、そのような研究は不可能なのだろうか。当然哲学では不可能だろう。最早哲学的探求方法では世界の全てを説明し尽くせないことは明白である。では、何が哲学に変わるのか。それはまだ何者でもないからテクストとしか呼べないが、そうしたテクストの生成に関わることは可能だ。この場は自然科学及び人文科学が抱える問題なり事象を統一的に説明する大統一理論について研究する場となる。

えてしてこうした大胆すぎる試みは失敗に終わりやすい。結局何も新しいことを語ることができず、意味のない言葉の羅列となる場合が多い。すでにある理論の矛盾点をどうにかしてつなげようと格闘しても、成果はあがらない。物理学で何度も実証されてきた効果的な革新方法がある。今ある理論とは矛盾する、目の前にある現象に徹底的に取り組むのだ。眼前に繰り広げられている現象をどうにかして解析しようとする奮闘の果てに、新しい理論が生まれてくる。この新奇な理論はすでにある学問の成果とは大きく矛盾するが、今ある学問では説明できない現象が目の前にあるのだから、新発見の理論を使うしかない。この理論がいろいろな未経験の現象を説明できる一般的理論だということが証明されるとともに、新理論は今ある理論と接続可能であることも理解されてくるだろう。現実との格闘の末に見出された新理論によって、それまでは無関係に見えていた別々の理論をつなげて解釈することができるかもしれない。今ある理論を無理矢理つなげようとするよりも、このように現実に対する研究から新理論を実証的に編み出し、それによって自然科学と人文科学を統一的に説明できる、誰もが利用できる法則を発見すること。これがこのテクストに課せられた使命である。

自然科学を基礎付ける哲学というと、自然哲学、科学哲学、環境倫理、生命倫理という言葉が思い浮かぶことだろう。しかし、それらの哲学は、自然科学なり科学技術なり、生命操作なり、ある特定の学問領域なり人間活動を基礎付けているだけで、人文科学から自然科学までの全ての事象を統一的に説明する理論を打ち立てようとしているわけではない。また、人文科学を統一する哲学としては、社会哲学なり公共哲学という名の学問が思い浮かぶことだろう。これらの哲学もまた、万物を基礎付けるという意味での哲学ではない。社会哲学は社会組織活動なり社会政策を基礎付ける哲学に過ぎないし、公共哲学は、公共性という観点から人間活動を基礎付ける哲学に過ぎない。それらはいずれにしても、自然科学を基礎付けることはしない。自然科学を基礎付けるといっても、自然科学の営み、社会活動としての科学技術を基礎づけるだけで、自然科学的な現象と人間活動によって生じる現象を統合的に説明する学問ではないのだ。自然科学と人文科学双方を基礎付ける学問など可能なのか。プラトン、アリストテレス、デカルト、ライプニッツ、ヘーゲルらの哲学は、双方を基礎づけていた。不可能ではない。統合しようとする努力を哲学者が放棄しただけなのだ。
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2007年11月25日

テクスト(1)現代物理学の大統一理論が忘れている人文科学の統一

今日からこのブログでは、連日1つのテーマに対して集中的に書いていくことにする。連綿と続く文章はやがて一つのまとまった文章作品となることだろう。

今回私が真の仕事として選んだテーマは「人類が抱えている問題とその解決策について徹底的に考え抜き、思索の足跡を残すこと」である。これは今回この計画かぎりのテーマではない。このテーマは私の人生にとって永続する仕事、すなわち天職となるだろう。

私は今まで小説家となることを夢見て新人賞に応募しつつ、駄文をブログ上に書き続けてきたが、夢というかエゴに満ちた欲望が実現しないまますでに6年以上が過ぎた。結果としては新人賞をとれずによかった。私は様々な文学作品を読み、現代思想を読み、思想的修練を続けた。万物の通奏低音ともいうべき小説を書くためには、物理学や数学に関する知識の習得が必要だと思いつつも、数学が苦手だから避け続けていたが、ここ最近になってようやく数学や現代物理学の業績について学ぶ機会を持つことができた。

現代数学の軌跡や相対性理論、量子力学、超ひも理論、量子情報理論等を学ぶにつれて、私の頭に大きな疑問が浮かんできた。物理学者たちは、万物を統一的に説明できる大統一理論、Theory of Everythingを求めて研究を続けていた。今まで点と考えられてきた物質の最小単位を「振動するひも」と考える超ひも理論は、統一できずにいた相対性理論と量子力学の標準理論を統一するかに見える。その業績、知的営為は素晴らしいが、肝心な視点が欠けていることに気づいた。物理学者は万物を支配する法則の研究にいそしんでいるが、その万物は自然法則に限定された万物である。宇宙や惑星や地球上の生命体の営みが大統一理論によって説明されたとしても、重大な問題が残る。大統一理論は人間の社会的営みを説明しないのではないか。人文諸科学の学問を基礎付けない理論をはたして大統一理論と呼べるだろうか。
posted by 野尻有希 at 23:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 7代後の孫への話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月11日

21世紀に必要な教養

これからこのブログでは、21世紀の教養について書いていくことにする。そういえば、このブログのコンセプトなり私の仕事とは、21世紀の教養について書くことであって、アクセス数を稼ぎ出すことではなかった。その使命を思い起こさせてくれたのは、下記の本だった。

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物理学はいかに創られたか―初期の観念から相対性理論及び量子論への思想の発展 (上巻) (岩波新書 赤版 (50))
アインシュタイン インフェルト
岩波書店 1963-09
おすすめ平均 star
star高校時代に出会いたかった本
star観念の世界と現象の世界との関係
star物理学はいかに創られたか知る一冊!
starノーベル物理学賞・小柴昌俊氏が物理学に目覚める契機を与えた好著(上巻)
star物理学は、「人は自由な創作をする存在である」ことを示している

物理学はいかに創られたか―初期の観念から相対性理論及び量子論への思想の発展 (下巻) (岩波新書 赤版 (51)) 物理学とは何だろうか〈上〉 (岩波新書) 物理学とは何だろうか 下    岩波新書 黄版 86 相対性理論 (岩波文庫) 物理法則はいかにして発見されたか (岩波現代文庫―学術)

by G-Tools , 2007/11/11



アインシュタインによる物理学の紹介本。数式を全く使わずに物理学の基本概念を解説してくれている。これこそ教養。

デカルトやライプニッツは、哲学と数学両方で、当時の知の最前線に立ち、人類史の発展に貢献していた。そうした人間になりたいと志を立てること。

教養について何回か考えてきたけれど、混迷を深めていく21世紀の世界で、人類が進むべき道、将来設計の指針を指し示すことが教養ではないのか。私が小説なり本に求めてきたのは、そうした教養だった。数々の先人たちの偉業に感謝して、自分自身も知の道を歩み続けること。前進は近代的価値観、というかギリシア的価値観だ。物事を合理的に突き止めて、理論を打ち立てること。20世紀は物理学、数学、文学、哲学、人類学、いたるところで不確定性原理が証明されてきた。21世紀はこの宇宙ではない、どこか別の宇宙とのつながりを考察する世紀になるだろうか。インターネットも超ひも理論も別の世界とのつながりを示唆している。そもそも人類は常に天国なり神の国なり別の世界とのつながりを欲してきた。別の世界に簡単につながるには、今やインターネットを起動すればよい。

戦争、民主主義、市場経済、地域紛争、テロリズム、宗教対立、貧困、石油、水、資源、格差、温暖化。現生人類が直面している問題は様々あるけれど、東京に暮らしている限り、平和に過ごすことができる。東京に暮らしている多くの人が完全な幸福状態にないことはショックだけれど、個人の心の問題と社会全体が抱えている問題をつなげて、解決していくこと。どういう風に解決していけばいいのか、まだわからない。わからないからこうして苦しんでいる。けれど、わからずとも解決できる。
posted by 野尻有希 at 22:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 7代後の孫への話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする