2016年09月01日

展覧会レポ:横浜そごう美術館レンブラント リ・クリエイト展2016

1659年にこれを描いた


先週の土曜日、横浜美術館のメアリー・カサット展を見た後、そごう美術館のレンブラント リ・クリエイト展2016にいってきた。みなとみらい駅前にある横浜美術館を出た後、馬車道を通って赤レンガ倉庫にいった後、東横線で横浜駅まで戻る。駅前の地下街の立ち飲み屋で寿司とハイボールを楽しんだ後、横浜そごうに入った。

そごう美術館は、百貨店の6階にある。デジタル技術で復元された複製画が展示されている。芸術的価値は低いかもしれないが、自画像41点を含む約200点のレンブラント作品が、一つの展覧会で展示されることはありえない。時を経て色褪せた作品は当時の色に再現されているし、レンブラントファンとしてはお腹いっぱい楽しめた。続きを読む
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2016年08月31日

展覧会レポ:横浜美術館メアリー・カサット展

メアリー・カサット ポストカード Mother and Child
メアリー・カサット ポストカード Mother and Child

先週の土曜日、横浜美術館のメアリー・カサット展にいってきた。台風到来間近で東京は雨。午前10時前に横浜に着いたら曇り空だった。本当はその週の水曜日行く予定だったけれど、『シン・ゴジラ』を見に行くために金曜日に延期。金曜日は小説教室の原稿締切日で時間が取れず、土曜になったのだった。

東急東横線のみなとみらい駅を出て、ショッピングモールを潜り抜けると、横浜美術館である。開館時間10時の時点で行列ができていた。友人から無料のチケットをもらっていたので、並ばずに進む。一般展示も見たくなったので、一般展示のチケットを買おうか迷う。チケット売り場は20人近く並んでいたので、まず特別展に向かう。カサット展のチケットを係の人に渡したら、一般展も見れますと言われた。続きを読む
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2014年10月15日

上野の国立西洋美術館ホドラー展、国立科学博物館を訪問〜恐竜の化石写真つき

10月12日日曜日、湯島天満宮にITストラテジスト合格祈願に行ったついでに、上野公園の国立西洋美術館ホドラー展、国立科学博物館も訪問してきた。


ホドラー展のポスター。
IMG_20141012_170741.jpg
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2010年08月29日

テレビ批評:NHK『トップランナー』(画家)松井冬子出演

トップランナーに画家の松井冬子が出演した。伝統的な日本画の手法を用いながら、現代アートのような作品を作る松井冬子は、パリでも個展を開いている。内臓がむきだしになった女性を描く松井冬子が、作品について語った。

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2007年06月16日

ダ・ヴィンチ『受胎告知』を観るために直射日光の下50分待った私

今日上野にダ・ヴィンチの『受胎告知』を観に行った。たった一枚の絵を見るために、直射日光の下50分待ち。ついに絵の前に立った時は、ダ・ヴィンチの天才よりも、クーラーってすごいなっていう現実に感嘆した次第。

ひな壇にたてられたダ・ヴィンチの絵の前に、50分並んだ人たちが群がって立っている。美術館なら他にもたくさん絵が並んでいるけれど、この部屋には一枚しか絵がない。まるで見世物小屋みたいな光景で、少しレオナルドが可愛そうになった。ひな壇に乗っているのが、絵じゃなく人だったらどうだろう。『アウターゾーン』に、生きている人類が博物館に並べられて、異星人の鑑賞の対象になっているというSF回があったけど、そんなアイロニーを感じた。あの絵はもう何百年と人類の好奇心にさらされてきたんだろう。

並んでいる人たちの何人かは、「あの絵いくらするんだろう」とか「日本が金持っているうちに見に行かなきゃ」って言っていたけれど、芸術とマルチチュードは経済価値で測定できないんだってば。パンク芸術は閲覧料1人当たり1500円で何百年と抵抗し続ける。

photo
芸術とマルチチュード
トニ・ネグリ 廣瀬 純
月曜社 2007-05

マルチチュードの文法―現代的な生活形式を分析するために 抵抗の場へ―あらゆる境界を越えるためにマサオ・ミヨシ自らを語る ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2

by G-Tools , 2007/06/16


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2006年12月13日

文学トイウコト

文学も哲学も没落している。哲学、文学、思想自体が自分たちに向けて敗北を宣言している。一体文学や哲学といったハイカルチャーは何に敗れ去ったのか。マスカルチャーなのか消費文化なのか物欲社会なのか情報過多社会なのかソーシャルメディアなのか、あるいはオリエンタリズムなのかポストコロニアリズムなのかエコロジーなのかフェミニズムなのか。

文学は形を変えて、思想になった。今私たちの目の前には新しい思想しかない。それでも何故小説は残り続けているのか。よくよく考えてみるだけで深い深い本ができる。



photo
失われた時を求めて〈13〉第七篇 見出された時(2)
マルセル プルースト Marcel Proust 鈴木 道彦
集英社 2001-03

by G-Tools , 2006/12/13


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2005年07月11日

ドレスデン国立美術館展にフェルメールを見に行く

美術館紀行を書く。このブログはプルーストの「失われた時を求めて」のようになりたいと思う、すなわち、プルーストは小説の中で、絵画においてエルスチール、音楽においてヴァントイユ、小説においてヴェルゴット、演劇においてラ・ペルマという4人の芸術家と、彼らが作る芸術作品を取り上げた。「失われた時」は優れた芸術批評小説となっている。始まったばかりのこのブログでは、音楽としてマイルス・デイビスとゲーム・ミュージックを取り上げた。続いて取り上げるのは、美術作品である。

先週の土曜日、上野にある国立西洋美術館で開催中のドレスデン国立美術館展に行ってきた。目当ては、フェルメールの「窓辺で手紙を読む若い女」である。私がフェルメールを知ったのは、大学時代である。世界中の芸術作品をおさめたとある本で、世界で最も美しい絵としてフェルメールの「青い衣の女」が紹介されていた。初めて見たフェルメールの画面が持つあまりの静謐さ、美しさに心を強く打たれた。

大学受験の世界史の問題では一度もフェルメールの名前は現れなかった。何故この人類の至宝というべき人の作品、名前が世界史の教科書に出てこないのか激しく疑問に思った。私はすぐさまフェルメールについて調べた。プルーストがフェルメールを愛好し、小説の中でも言及していることを知ったのが、「失われた時」を読もうと思った動機である。フェルメールは私と芸術との接点を作ってくれた。

フェルメールの絵を見るためだけに海外に行きたいと思ったが、日本に展覧会が来るのを待つことにした。ピカソやゴッホの展覧会は毎年どこかで開催されていたが、寡作のフェルメールはなかなか来日しなかった。去年ごろ、一度国内でフェルメールの展覧会があったが、そこに私の好む絵がなかったので、しばし時を待つことにした。そしてようやく、名作「窓辺で手紙を読む女」が日本にやってきた。待ちに待った、本物のフェルメールとの出会いである。

土曜日の西洋美術館入り口はそんなに混んでいなかったが、会場を進むにつれ列がこみあってきた。今回はザクセンにあるドレスデン国立美術館のコレクション展示であり、地理学問、トルコ・中国・日本美術、イタリアルネッサンス、オランダのレンブラント派、ドイツロマン主義まで幅広い展示となっている。私の目当ては唯一つ、フェルメールのみであり、いつも通り礼儀知らずに、列を飛び越え飛び越え進んで行った。ただ、途中目をみはるものもたくさんあった。例えば、展覧会の一番最初、デューラーの筆による人体図や、地球儀、天球儀が展示されていた。16世紀のデューラーの画は精密で、芸術的だったが、彼は美のための美ではなく、学問研究のために精密画を書いていた。この当時、まだ芸術は実用の婢だった。他にも様々な精密画、空間構成を研究した模型が展示されていた。このような精密な技術の積み重ねが、近代リアリズムを生み出したのだと実感した。

地球儀の日本には北海道がなく、大陸の形もいびつだった。それでも、海のいたるところに波や船の絵が描かれており、芸術的に美しい地球儀だった。近代になると装飾性がはぎとられ、本当に精密な地形図だけが発展していくわけである。天球儀にも、獅子や双子が描かれており芸術的だったが、正確さはあやしかった。よくよく考えると、3次元空間をあしらった空間構成図も、素人目に見る限りは実に精密で芸術的なのだが、現代のプロが見れば、様々な間違いを発見するのだろう。げんに、街の風景画を眺めていた時、大画面に描かれた精密極まりない構成に私は驚いたのだが、美術通らしい二人連れは、遠近法が間違っていると馬鹿にしていた。それでも、その都市風景画は現代ではありえないほど雄大で静かな画風を成しており、遠い中世の街並みが想起される名作だった。当時の風景画を見ると、発生しつつあった遠近法などの科学技術と、芸術制作が不可分のものとして結びついていたことがわかる。現代からみればあやふやな技術だろうが、当時の制作者の美的、学問的探究心に心をうたれた。

続いてオスマントルコの芸術作品展示となる。トルコはトルコで、西洋とは違った細密さをもつ陶芸、技術を残している。この当時はまだヨーロッパより中近東の方が文化的に発展していたということがわかる壮観さであった。どうも文化の発展、成熟度は、芸術作品、科学技術(この二つをまとめてアートと呼ぼう)ではかられるようである。オスマンの次にはイタリアルネッサンスの作品が並んでいた。彫刻技術の精密さ、ギリシア・ローマ的美しさに心を打たれたし、今まで一度もいいと思わなかったティツィアーノの絵をすばらしいと思った。1555年頃制作の「白いドレスの女性の肖像」は、画面大きく、美しい女性の上半身が細密かつ大胆な絵筆で描かれており、こんなすばらしい絵は一生かかっても私には描けないだろうと思った。ルネッサンスのイタリアは本当に文化の頂点にあったのだろう。文学でもダンテなどイタリア文学の隆盛はルネッサンス期である。近代文学の名作はフランス、ドイツ、イギリスから出ており、19世紀イタリアは西北ヨーロッパに文化でおいていかれる。文化・文明の隆盛期にその国の最も優れた文学が誕生するのだろう。スペインはフェリペ2世の16世紀にセルバンテスが「ドン・キ・ホーテ」を成した。20世紀後半は発展のラテン・アメリカで優れた文学が噴出している。

日本・中国美術の展示にはそれほど感銘を受けなかった。ドイツの美術館に有田焼のコレクションがあり、それが日本に展覧会としてやってきたことは嬉しい驚きだったが、普段見なれているせいか、ヨーロッパやトルコの磁器より感銘を受けなかった。おそらく東洋美術は西洋式の遠近法などリアリズムを採用していないため、その日の私に驚きをもたらさなかったのだろう。

続いて、オランダレンブラント派の展示にうつる境界線上に、フェルメールの作品がおかれていた。本当に、通路と通路の間に、どこにも当てはまらずぽつんと孤立している感じで拍子抜けした。前評判通りフェルメールの前ではそれほど混み合っておらず、じっくりと鑑賞することができた。印象としては、何度もポスターやネット上で見ているので、激しい感動はなかったが、窓に女性の顔が映し出されていることが特に目についた。窓に横顔が映っていることは、知識として知ってはいたのだが、透明感溢れるガラスへの映り具合は実物を見なければ実感できず、本当にすばらしかった。カーテンなど、ところどころに銀のような光る物質がまざっている。画面下方においてある赤い布は部分的に盛り上がっており、本当にそこに布がおいてあるかのようだった。

フェルメールを超えると、空間が大きく広がり、オランダ美術の展示となる。アウグスト強王の息子フリードリヒ・アウグスト2世はフェルメールの作品をレンブラントのものと思って購入したらしい。近代になるまでフェルメールは存在さえ評価されていなかった。そのような展覧会主催者側のアナウンスや、展示と展示の間、通路にはみ出しもののように展示されている配置からして、フェルメールのこの絵は何だか調子外れの印象があった。電車内の広告や美術館前の広告でも、フェルメールのこの絵のみが張り出されているのに、展覧会の配置では、隠し玉のように周縁に配置されている。対してもう一方のオランダの巨匠レンブラントの作品は、弟子の作品を含めて、堂々と、大きなスペースをとって展示されていた。だが、今回レンブラントの絵にはそれほど感銘を受けなかった。続くドイツロマン派の素朴な風景画にも、16世紀の学問的な風景画ほどには感銘しなかった。

全ての展示を見終わって外に出ると、会場に入ってから40分ほどが経過していた。前々からずっと実物を見たいと願っていたフェルメールだが、実際は拍子抜けするように過ぎ去ってしまった。願いが叶う時とはこのように空しいものなのだろうか。振り返ると、デューラーの精密画と、ティツィアーノの女性像の方に予想外の感銘を受けた。あんなすばらしい絵を書くのに、どれほどの努力、研究が必要だったのだろうかと、古代のアーティストの力量に畏怖の念を覚えたし、自分がどれほど本気で文章の制作に取り組んでいないか身の程がしれた。ティツィアーノの10分の1も本気で仕事に取り組んでいないし、これでは成功の芽がないと実感できた。技術の研究に没頭すること、これが私の課題である。
posted by 野尻有希 at 17:21 | Comment(0) | TrackBack(2) | 芸術論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする