2009年06月25日

エピローグ〜報酬と暴力〜

ブログ上で時々連載してきた小説
ワークタイトル「競争から協創へ」
今日で最終回、エピローグです。



▽エピローグ〜報酬と暴力〜△


 僕は書きためた日記をレーザープリンタでプリントアウトして、たんぽぽの花の前に持ってきた。念のために2MBのUSBに日記のテキストファイルも保存して持ってきた。
 たんぽぽの花はまだ黄色い花びらを広げていた。花の前にA4用紙の束をおいて、僕は両手をあわせてお祈りした。
「たんぽぽの妖精さん、日記を持ってきました。僕が感じたままの毎日を記録しました。命の記録です。お読み下さい」
 たんぽぽの妖精の声は、聞こえなかった。
 以前聞いたたんぽぽの声は、やはり幻だったろうか。
「ありがとうございます」
 若い女性の声がした。
 歩道に携帯電話ショップのキャンペーンガールみたいな格好をした女性が立っていた。ミニスカートに白のブーツ。赤いキャップをかぶっている。彼女の瞳の部分には、口があった。左目のある場所に口。右目のある場所にも口。本来口がある場所には、一つ目があった。
「願いを叶えてもらえたんですね。本当にありがとうございます」
 僕から見て彼女の左側の口が動いた。あたりを確かめた。いつもは人通りが多い駅前の歩道に、今日は誰も歩いていない。
「あなたは人間じゃない?」
「そう、あなたたちと同じような人間ではありません。けれど、人の間にある存在という意味では、私たちも人間です。私たちは、あなたたちと友達になりたかった。友達になれずにいた。だから、あなたにレポートの作成を頼んだ」
 今度は、彼女の右側の口が動いた。右側の口から出る声は、僕がレポートを書き始める前二聞いた年老いた男性の声だった。
「僕のレポートを読んで、何に利用するんですか」
「あなたたちが何を考えているのか、何を感じているのか、知るために利用します」
 今度は、左側の口が開いた。体の容姿と同じ、若い女性の声がした。
「それを知って、どうするんです?」
 以後、左右の口が交互に開いた。
「友達になるための、とっかかりにしようと思って……馬鹿らしいですか?」
「何もそんなまわりくどいことしなくても、話しかけてくれたらいいのに」
「私の顔はおそろしいでしょう。私たちの顔は、あなたたちの常識からしたら、異常で不気味な顔です」
「それは僕たちの常識であって、あなたたちの目からしたら、僕たちの顔は不気味に見えるかもしれない」
「そうです。よく知らないと、相手の顔はみんな不気味に見えるものです。だからそのうち、あなたにも私たちの考えていることを知ってもらいたいと思っています」
「こんな風にレポートを交換することで?」
「そうですね。ある人が何を考えているのか、何を感じているのか、絵や写真にも現れるけれど、その人の思考と精神が一番よく現れるのは、書き文字ですから」と言ったのは、左側の口、女性の声だ。
 彼女は腰をかがめて、タンポポの横においてあるレポートの束を手にした。
「そうだ、報酬をあげましょう。どうぞ、これを」
 彼女が胸の間に手を伸ばした時、銃声がした。彼女の頭から血が飛び出る。彼女の体が右側に倒れる。僕の命の記録が書かれたA4用紙が歩道に散らばった。
 銃声のした方向を見る。武装した機動隊員たちがライフルを構えていた。
「危ないから離れてください!」
 何故殺したんだ?
 そう叫ぶことはせず、急いで路地裏に走った。
 サイレンが鳴り響く。上空でヘリコプターの音がする。僕は狭い路地を走って、人間の目から姿をくらました。
 彼女の異形の姿はきっと、僕以外の人間にも見えたのだ。彼女は何故殺されたのか。理由を想像すると、哀しくなった。
 僕は自分の部屋に帰り、ノートパソコンの電源を入れた。これで終わりではない。また、向こうの宇宙から誰か呼びかけてくるかもしれないではないか。乱暴者の僕たちとの交流を求めて、話しかけてくる異形の、優しい人たちに向けて、思考の道筋を残していこう。呼びかけに暴力で答えるだけの存在ではないということを、指し示すために。
 彼女との記憶をとどめるために。

ワークタイトル「競争から協創へ」(了)
posted by 野尻有希 at 00:06 | TrackBack(0) | 小説「競争から協創へ」(完結) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月24日

プロローグ〜盗み見ることをやめた観察者

連載してきた小説「競争から協創へ」。今更ですが、プロローグを掲載します。今まで掲載してきた文章の全ての始まりに、以下のプロローグあるのだと想い定めて下さい。


△プロローグ▽

 路上から声が聞こえてくる。
「すいません。そこのあなた、私の声が聞こえますか」
 立ち止まって辺りを見回しても、誰の姿もない。
「ここです。私です」
 アスファルトの間に黄色いタンポポの花が咲いている。東京に来てタンポポを見るのは始めてかもしれない。子どもの頃は、よくタンポポの花を見つめていたのに、大人になったら花が目につかなくなった。
「やはりそうですよね。あなたには私の声が聞こえますよね」
 僕は周りに誰もいないことを確かめてから、かがんでたんぽぽを見つめた。
「私のお願いを聞いてもらえますか?」
 僕は肯定も否定もしなかった。
「あなたが生きていること、感じたことの記録を毎日つけて欲しいのです。それをこの東京という街の調査報告書として、一ヵ月後にいただきたいのです」
「あなたは誰ですか? 人間?」
「私たちは、人間ではありません。あなたたちの命をずっと観察してきた者です。ただもう私たちは、外からあなたたちの命を観察して、書き留めるのはやめにしました。あなたたち自身に、記録をつけていただきたいのです」
「日記なんて、そこら中の人が書いてますよ。ネットに行けば、ブログでみんな私生活をさらしてる。命の情報なんてそこら中に溢れてるのに、何故僕に頼むんです」
「私たちは、こっそりと盗み見ることはやめにしようと決めたのです。あなたたちにお願いして、あなたたちの了承を得た上で、記録をいただくことに決めたのです。あなたの命の記録をつけていただいたら、それ相応の報酬はお支払いします」
「報酬はいりません」
 世界の半分をあげましょうなんて言われたら嫌だったので、僕は断った。
「あなたの命の時間を明け渡して、記録していただくのですから、報酬はきちんとお支払いします。私はそれを欲しているのです。ただでもらうことはできません。当たり前に報酬を受け取って下さい」
「報酬ってお金ですか?」
「それは最後のお楽しみ」
 こうして、日々の記録が始まった……
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2009年06月22日

ラーメン屋の職人技、府中のにんにくや

 十七時半に山梨県内のゴルフ場を出て、二十二時頃、府中にあるラーメン屋にたどりついた。多摩ニュータウンの住宅街にある、ラーメン屋。小雨が降っていたが、店の外にまで行列ができていた。店員は店長ひとりのみ。一人で全てをやる職人気質。ラーメンの作り方をマニュアル化して、大量の店員をそろえれば、回転率があがるだろう。日本全国にチェーン展開もできるだろう。しかし、この店の店長は、一人で黙々とラーメンを作っていた。「小指骨折により本日は休業します」と何の予告もなく、休暇のお知らせが張り出されたこともあったらしい。それが職人気質というものだ。
 ラーメンにはにんにくがたっぷり入っていた。カウンターにもにんにくがおいてある。やせた女性もにんにくをつぶし、替え玉を注文していた。
 ゴルフで疲労困憊だったが、にんにくのたっぷり入った醤油ラーメンを食べたら、疲れが吹っ飛んだ。
 職人技は、グローバリゼーションに抵抗する。マニュアル化、大量生産、効率的経営をこばむ職人のこだわり。
posted by 野尻有希 at 23:29 | TrackBack(0) | 小説「競争から協創へ」(完結) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

田舎の野犬、FM放送の没落、カーナビのアホさ

 自動車で東京まで帰る途中、野犬の話が出た。山梨を走っている最中、歩道に犬が一匹いた。人間と一緒にいない。犬一匹のみの歩道散策。これを見てみんな野犬だと言った。確かに東京都内では、犬が一匹のみで歩道を走り回っている光景には出会わない。奥多摩の方ではあるかもしれないが、山手線圏内ではあまり見ない。田舎は怖いという話になった。
 新潟でも野犬はいるのと聞かれた。僕が子どもの頃は、犬が一匹で、街を走っているのをよく見たことがあると答えた。犬が一匹でいても、野犬ではないかもしれない。飼い犬だけど、一時の自由を楽しむために逃げ出しただけかもしれない。
 野犬がいて、怖くないのかと聞かれた。街中を一匹で走っている犬は、人に噛みつかないと答えた。犬だって人が怖いだろう。お互い怖いのだ。怖いからこそ、攻撃する。
 ドライブ中ラジオのFM放送を聴いていた。FM放送では、洋楽も邦楽も懐メロばかり流れた。僕が高校生の頃のFMは、もっと新曲を放送していたように思える。もうラジオなんて、ドライブ中の車内か、飲食店でしか流れないだろう。おじさんおばさんが、若い頃聴いていた音楽が、リスナーの必要を満たす。ラジオと言えば、若い人が投稿しているかと思えば、リクエストも四十代女性などが多かった。
 ラジオの放送中、女性DJの英語の発音がやたらめったらいいことに改めて気づいた。気取って発音しているわけではない。普通に、ネイティブの発音なのだ。日本語の中に時々英語の発音が混ざると、発声法の違いから、違和感を感じるが、アメリカ人のゲストとDJが会話し出したら、ネイティブの人と区別つかない発音で驚いた。
 会話中、何度か「right」という言葉が聞こえてきた。英語では、正しいと肯定する場合、「right」と表現する。正しいのは右で、間違っているのは左。右翼と左翼と言っても、日本ではぴんとこないけど、英語だと、右が正しく、左は反対。
 高速道路が混雑していたので、相模湖のあたりから、国道を通って東京まで帰った。レンタカーにカーナビがついていなかったので、携帯電話のカーナビ機能を使って帰った。携帯のカーナビも自動車についているカーナビと変わらない使用感だった。GPSを利用して、現在位置が把握される。混雑状況まで考慮し、目的地への最適到達時間を計算してくれる。けれど、当然人間の計算結果とは異なってくる。
 カーナビは、大きな道路を選択する傾向が強い。人間なら、自分だけが知っている裏道を通りたがる。「このナビはアホだ」という言葉が何度も出た。レンタカーにカーナビ機能がないと、不便だなと朝は言っていたのに、いざ帰り道で携帯電話のナビを使えば、アホだと言う。
 ナビの選択はどうも杓子定規でアホっぽい。けれど、ナビをアホだという僕らはナビを開発できない。量子力学の理論に基づいて、人工衛星から携帯電話の位置を探り出す。最新の通信技術を使って、車をナビゲーションする。カーナビは偉大なる天才科学者たちの知能が生み出したものだ。しかし、科学者がどんなに頭がよくても、人間の柔らかい知能は、いまだに作り出せずにいる。一般社会で起きている、いかにも適当で、その場しのぎてきな選択の数々。こうしたラフで柔軟な仕組みを、科学者は苦手とする。
 人類最高の頭脳が結集して作り出したカーナビは、一般の頭脳からすれば、アホっぽいナビゲーションばかりをする。人類の行く末を、天才たちのナビゲーションに任せていいだろうか。天才たちは、ダイナマイト爆弾も原爆も大陸間弾道ミサイルも作り出した。高度な戦略理論、探索衛星、化学兵器も作り出した。彼らの頭脳にナビゲーションを任せていていいのだろうか。ラフで柔軟な選択が必要ではないだろうか。
posted by 野尻有希 at 01:08 | TrackBack(0) | 小説「競争から協創へ」(完結) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月21日

ゴルフの意味と生きる意味

 朝五時に家を出てゴルフに行った。翌日深夜0時過ぎに帰ってきた。
 ゴルフのラウンドに出るのは、一ヶ月半ぶりだ。音楽家は毎日楽器に触れていないと腕が落ちるという。ゴルフも同じで、ラウンドに出ないでいると、以前と同じようにクラブを振れなくなる。スコアが乱れる。
 高度経済成長のように右肩あがりでスコアが伸びていたけれど、はじめてスコアが下がった。ハンデが97もついた。
 今までは、自己ベストスコアの更新目指してラウンドしていたが、途中からもう、自己ベスト連続更新は無理だと諦めた。一緒にラウンドしている人からも、エンジョイしようと言われた。確かに僕は、予想していた通りにボールが飛ばないと、気持ちを乱していた。自分に否定的評価ばかり下していた。同伴プレー者から「ナイスショット」と言われても、自分では不満だらけだった。
 一緒にプレーしている人のショットを見た時、自己認識の不的確さに気づいた。ショットした直後、本人は「くそ」、とか「あ」とか言う。けれど、見ている僕には、ナイスショットと見える。瞳に映ったショットがナイスショットだったら、ショットした本人がどう思っていようが関係ない。「ナイスショット」と声を出すこと。そこからゴルフが始まる。自己認識と他者認識の違いが意識化される。本当の自分はどんなものなのか、的確に議論されて、見出されていく。究極的に、本当の自己とは、自分が自分自身のことをどう思っているかなど関係ない。
 自分の打ったショットがどうあろうが、自分の理想と違うものであろうが、気にしないことにするのが一番いい。人から見れば、ナイスショットかもしれない。自分ではナイスショットと思えるショットも、他の人から見れば全然いけてないショットかもしれない。結局、誰がどう思っていようが関係ない。そこに一振りのショットがある。それだけだ。悩むことも、鼻にかける必要もない。
 途中から、ゴルフをエンジョイしようと思ったら、風が吹く音、風が肌に当たる感触が意識化された。虫もないている。太陽の光がまぶしい。ゴルフ場の外に広がる山梨県の風景も目に入ってくる。これら全て、スコアに集中していては、意識から捨象されてしま。大切なものだ。
 スコアアップを意識から外したら、スコアは大きく崩れた。やはり、何を目標にして生きるのか、非常に重要だ。意識していないと、意識していた時と同じ結果は得られない。意識しすぎることもいけないけれど、意識しないのもいけない。意識しないでおこうと言いながらその実、悪い結果を得ようと意識しているかもしれない。結果に執着しないことは難しい。
 生きる目的とは何だろうか。生きる意味とは何だろうか。自動車に乗って、窓を開けて、風を感じることではないだろうか。自動車の窓を閉め切っていては、すぐ眠くなる。窓を開けると、風が入ってくる。風の中には、街を歩く人たちが吸っている酸素、吐き出した二酸化炭素、車の廃棄ガス、その他雑多な物質が入っている。それらの異質性と交じり合うこと。
posted by 野尻有希 at 00:55 | TrackBack(0) | 小説「競争から協創へ」(完結) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

コンビ二の接客、満員電車の迷惑、クレームとサービス

 職場近くのコンビ二で、黒ごま入りたんたんめんと、ほうれん草とひじきのサラダと、ウーロン茶のペットボトルを購入した。レジの店員さんから、手のひらにぽんと強く、おつりとレシートを渡された。渡されたというより、押しつけられたという感じ。もうちょっと優しく渡してくれたらいいのにと、少しだけ、不満を感じた。
 帰り道、こんなちょっとしたことで怒る必要はないと思えた。コンビ二の店員さんの接客態度に不満なら、コンビ二で夕食を買わなければいい。もっと心のこもった接客をしてくれる場所で、食事をしたらいい。マニュアル化された、シンプルで、簡単な接客だからこそ、コンビ二は便利な店になった。お客様に対してそっけないかもしれないけれど、二十四時間営業している。どんなものでもおいている。便利さ、使いやすさと引き換えに、シンプルで簡略化された接客が行われる。
 毎日毎日同じコンビ二に通っても、コンビ二の店員さんと、他のお店の店員さんのように、親しげに話すことはない。その他人行儀さが、コンビ二を便利で快適なものにしている。成年であれば、二十四時間何を買っても許される場所。何も問題にされない便利な場所。コンビ二。
 仕事帰りの電車、新宿駅に乗ってきた人がぼくの背中を押した。電車はいつも混んでいるから、背中を押されたり、他の人の体とぶつかることはしょっちゅうある。しかし、今日みたいに強く押されたことはなかった。
「どけ」とは言っていないけれど、背中を押す人の当たりの強さが、「どけ」と語っていた。
 僕の体を押しのけた人は、白髪のおじさんだった。老人という感じではない。カジュアルなスーツを着た、背の高い白髪のおじさん。
 背中を押されてむかっとしたから、おじさんの行方を追った。彼は僕以外の乗客も押しのけて、電車の奥に進んだ。彼は空席を目指していたのかもしれないが、つり革につかまって、立っていた。
 文句を言いたい気持ちにもなる。しかし、気持ちをおさえて、読書に戻る。僕はちょうど、リンギスという現象学者の本を読んでいた。日本語の題名は「汝の敵を愛せ」。
 僕は試されたと思った。敵を愛することができるのか。知識としてだけでなく、生活として、日常の掟として。
 おじさんは何故乱暴に振舞ったのだろう。混雑した電車に乗っている人たちの体を障害物みたいに押しのけて、電車の奥に進んだのだろう。彼は酒を飲んでほろ酔いしていたのかもしれない。何か嫌なことがあって、むしゃくしゃしていたのかもしれない。性格的に、他人のことより、自分のことが気になるのかもしれない。混雑した電車には普段乗らないから、都心部の電車のマナーを知らなかったのかもしれない。
 おじさんが僕たちの体を障害物みたいに扱った理由を考えれば、たくさん出てくる。おじさんを責める必要はないと思った。おじさんを敵と思う必要もないと思った。おじさんの人生と僕の人生は、混雑した電車の中でほんの一瞬触れ合っただけで、またすぐ離れ離れになる。
 おじさんの人生について想像すれば、怒りを抱く必要がなくなる。接客でもそうだ。何故こういう接客になるのか。相手が抱え込んでいる人生について考えれば、怒る理由もなくなる。
 外資系の企業で働いている先輩と会って、高田馬場で食事をした。カウンターに座っていると、先輩の調理人が、新人の調理人に怒り続けていた。お客が二人、目の前にいるのに、怒り続けている。先輩は、接客マナーがなってないと怒っていた。僕もお客さんの前でこれはないなと思ったけど、この店を選んだのは、僕たちの責任だと思った。
 もっとよい接客を求めるなら、料金の高いお店にいけばよいと思う。
 そう言うと先輩は、それも一利あるけれど、こういう時はクレームを言った方がいいと主張した。おかしな接客をしているのに、注意しないと、このお店のためにならない。お店の人たちは、自分たちがやっていることが、おかしなことだと気づいていない。ちゃんと注意しないと、お客が離れていく。
 結局僕らは、お店にクレームを言わなかった。怒りを感じたら、怒りを感じた人に向けて、怒りの感情を表現したらいいのだろうか。どうして今、僕は怒っているのか、きちんと説明して、よく話し合ったらいいのだろうか。それとも、自分自身の怒りを分析して、こんなささいなことで怒る必要はないと怒りを静めた方がいいのだろうか。
posted by 野尻有希 at 00:37 | TrackBack(0) | 小説「競争から協創へ」(完結) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月17日

トンテキカレーと一緒に築く僕たちの社会

 夕食、カレーのチェーン店に入った。新メニューとして大々的に宣伝されていたトンテキカレーというのを頼んだ。
 どんなものが出てくるかはわからない。広告写真だけ見ると肉に見える。トンテキという名前からして、豚肉だろう。
 水を飲みながら、ブラッドベリの小説を読んでいたら、トンテキカレーが出てきた。
 キャベツの上にタレをたっぷりつけた肉が乗っている。おそらく豚肉だろう。
 食べると肉の味が口に広がる。牛肉ではない。鶏肉ではない。おそらく豚肉だけれど、豚肉だという確信も持てない。トンテキという名前を初めて聞いたし、甘辛ダレの味が強くて、なんだかよくわからない。
 豚肉だとして、トンテキとは豚肉のどの部分なのか。インターネットの検索サイトで調べれば、簡単に知識は手に入るだろう。けれど、そうやって知ることで、本当に十分だろうか。この食べ物は何なのか。知識として知っただけで、十分なのだろうか。
 この肉と一緒に、僕は生きている。豚かどうかもよくわからないけれど、この肉を今日口の中に入れて、かみくだいて、僕は命をつないでいる。この肉なしに、僕の人生はない。それをよく忘れてしまう。
 この肉だけではない。キャベツ、ライス、カレーのルー、漬物、水、氷、店員さん。それら全部の生命が、僕の人生をつないでいる。僕たちの社会を築いている。
 僕たちの社会は、人間だけが作ったものではない。トンテキとカレーも、僕らの社会の一部なのだ。トンテキって、何なのかよくわかんないけど、トンテキも僕らの社会の大切な一員なのだ。少なくとも、トンテキの元となった豚一匹の命は、僕の命のために捧げられたのだ。今日僕の胃袋の中に入って、僕の細胞生成に役立った豚さんの命とともに、僕は生きている。
 僕らは人間以外の多くの命に助けられて、生きている。その事実を忘れてはならない。同時にまた、調理されたのに食べられず捨てられていく命もまた、たくさんあるということを忘れてはならない。
posted by 野尻有希 at 23:42 | TrackBack(0) | 小説「競争から協創へ」(完結) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月16日

地下鉄の音と匂い、信号を待てない男

 土曜日、朝七時に部屋を出てゴルフの練習場に行った。中野坂上で食事した後、地下鉄大江戸線で国立競技場まで向かう。スリングしただけで肩が痛かった。体中こりかたまっていた。
 帰りも大江戸線で新宿まで向かった。大江戸線に乗っていても、今は何も感じない。しかし、就職活動していた頃に初めて大江戸線に乗った時、列車が出す音がうるさくて、もうこんな電車に乗れないと思っていたことを思い出した。地下深い大江戸線は、他の地下鉄よりも音が大きかった。爆音で本を読むこともできない。
 大学時代は電車に乗らない生活をしていた。大学までは自転車で毎日通っていたし、買い物にも自転車を使った。中央線に乗ることはあっても、地下鉄に乗ることはない。当時は、こんな爆音を出す大江戸線には乗れないと思っていたのに、今はごく当たり前に地下鉄を利用している。僕がなれたのだろうか。
 数ヶ月前、叔父が東京に来るというので、一緒に飲んだ。飲み終わった後、丸の内線のホームにいた時、親戚の叔父さんは、「石油の匂いがする」と言った。
「丸の線独特の匂いだ」と叔父さんが言っても、僕は石油の匂いを感じなかった。毎日地下鉄に乗っているから、感覚が麻痺したのだろうか。
 僕がおかしくなったのか。毎日地下鉄を利用しない人はただ単に慣れていないだけなのか。
 大江戸線の新宿駅ホームを下りて、地上に上るエスカレーターにもたくさんの人がいる。みなごく当たり前に地下鉄を利用している。爆音に慣れている。都会のノイズに慣れている。
 午後もずっと肩と脚が痛かったので、ドラッグストアによって、痛み止めの薬を買った。体がずいぶんと楽になった。

 日曜日、朝と夕方の二回、ゴルフの練習場に行った。夕方は練習場に行く前、モスバーガーを食べた。
 食後、ニューズウィークを読んでから、外に出た。モスバーガーは交差点にある。自転車のかごにカーゴバッグを置きつつ、交差点の信号を見る。進行方向の信号が、青から赤にかわりそうだった。以前の僕なら、急いで自転車に乗って、信号が赤になる前に横断歩道を渡ろうとしただろう。けれど、今日は急がなかった。
 ゆっくりとバッグをかごにおいて、自転車に鍵をさしこんだ。そんなに急ぐ必要はない。何故信号が赤にかわりそうだと、急いで横断歩道を渡りたくなるのだろうか。何故電車が出発しそうだと、駆け込み乗車したくなるだろうか。信号も電車も、ちょっと待てば、また次が来るのに、不思議だ。みんなと一緒に急ぐ必要なんてない。時間はたっぷりあるのに、何故か足りない、急ぎたいと思ってしまう。何故だろう。
 田舎に住んでいることはこんなことはなかった。情報も少ないし、やることも少なかった。東京で暮らす今は、平日も休日もやることがたくさんある。予定がたっぷりつまっていて、信号や電車も待てない状況だ。本当はそんなにつめこむ必要なんてないのに。
 1分待たないうちに、赤信号はまた青信号にかわった。僕は余裕をもって横断歩道を渡った。少し遅れてもかまわない。そんなに急ぐ必要なんてないんだから。
posted by 野尻有希 at 23:16 | TrackBack(0) | 小説「競争から協創へ」(完結) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月26日

東京都内サイクリングのライフログ

 ネット上に読んだ本、見た映画、聴いた音楽、出会った友人等の記録を毎日つけていって、個人の人生の情報を蓄積することを、ライフログというのだという。
 日記とライフログの違いは何か。日記はごく私的なもので、他人に読まれる可能性はないが、ライフログは、ネットという公共空間での公開利用を前提としている。さらに自分のライフログが、見ず知らずの他者のライフログとリンクする。情報が無限につながっていく。
 ライフログはビジネスにも利用されている。個人の売買情報、好きな商品の情報が蓄積される。パソコンや携帯電話などの情報端末が、行き着けのお店の店員さんのように、ユーザーにおすすめの商品情報を提供してくれる。大衆から個人への流れは続く。
 そこで、平日有休に東京都内をサイクリングした僕のライフログ。
 朝六時、窓から漏れる太陽の光で目覚める。スピルバーグの映画を観て、テレビゲームを少しやってから、買い物に出ることにした。書いている小説に青山霊園が出てくる。ネットで検索すれば、青山霊園を上から見下ろす航空写真を見ることができるし、青山霊園に関する大量の情報を集めることができるけれど、それらはやっぱり表面をかすめた情報だ。自転車に乗って、青山霊園まで行くことにした。
 コースは中野から出発し、新宿と秋葉原で買い物。皇居前、六本木を通過して、青山霊園へ。青山霊園から、新宿に戻って、中野に帰る。
 電車で急げば、二時間くらいで周れるかもしれないが、今日はゆっくり時間をかけてサイクリングを楽しむことにした。
 十時に中野を出る。いつもの通勤コースを通って、新宿に十時二十分に到着。ツタヤに遊び終えたゲームソフトを売った後、紀伊国屋書店でアーレントの「革命について」と、ウェルズの「タイム・マシン」を購入した。
 靖国通りを真っ直ぐ進んで市ヶ谷に行く。歩道沿いに長大な壁が続く。どんな巨大な建物があるんだろうと思いながら、正面玄関にある札を確認したら、防衛省だった。入り口の警備員の後ろ、ずっと奥に立派な建物がある。この奥に自衛隊市谷駐屯地があるんだろう。在日米軍は沖縄でも横須賀でも暴力事件を起こしているが、自衛隊の人は、こんな都会のど真ん中、欲望を刺激する場所だらけなのに、平常心で生きているのだろうか。
 と思ったけれど、民間人の人でも欲望に流されることなく毎日慎ましく生活している人はたくさんいるんだから、たいした問題ではないと気づいた。
 靖国通りを真っ直ぐ進んで、秋葉原まで行く予定が、市ヶ谷の駅前で間違えて、外堀通りに言ってしまった。自転車で進んでいると、ソニーミュージック、大日本印刷などの会社のビルがそびえ立っている。靖国神社前も通ったし、目的外で、軽い観光になった。
 秋葉原に十一時に到着。食事や買い物をして、十二時に出発。神田や大手町は、昼休みのビジネスパーソンでいっぱい。
 大手町に、大手新聞社の立派な本社ビルがあった。修学旅行生らしき学生たちも見学に来ていた。こんな立派な本社ビルを拠点に記事を書いても、社会の問題を炙り出せないのではないかと疑問に思った。
 皇居前を通って、六本木経由で青山霊園に向かう。ポケット地図を自転車のかごに入れて、現在地を確認しつつ、皇居の内堀を進む。都会とは思えない、のどかな広い庭園が広がっている。
 昼休みで休憩中のビジネスパーソン、家族連れ、老人。頭に新聞紙を巻いて、昼寝している人もいる。就業先から解雇された人たちは、皇居前に広がるこの大庭園でキャンプすればいいんじゃないかとも思ったが、警察官も多いから、治安維持のために排除されるだろう。
 桜田門外には、平日でも村上春樹風のランナーがたくさん走っている。ランナーと一緒に桜田門前の信号を渡り、警視庁前を通る。
 国会前の信号まで来ると、国会議事堂の堂々とした建築が見える。
 首都高速都心環状線沿いの歩道には、官庁の立派な建物がたくさんある。丸の内の民間企業のビル郡もすごかったが、官庁の建物もごつくて威厳のあるものばかり。こうした建物の中で、背広を着て働く人官僚を、みんな信頼できるだろうか。
 新潟の田舎にある市役所みたいな古ぼけた建物で、スーツもシャツも着ず、ランニング姿で、うちわをあおぎながら陽気に仕事をしているおじさんをイメージしたいと思った。
 厚生労働省の前では、旧国鉄の訴訟について訴えるデモをやっていた。立派なビルの入り口前歩道に、おじさんたちが座りこんでビラを配っていた。国鉄の問題なんてまだやっていたのか、ニュースにもなっていないなと思いつつ、自転車で駆け抜ける。
 六本木のドン・キホーテ、六本木ヒルズ前を通り、西麻布の交差点で右折、青山霊園にたどりついた。青山霊園のホームページで映像を見たら、ずいぶん立派な桜並木の道があるのだろうと思ったけれど、霊園の真ん中、南北に通る並木道は、車一台がやっと通れるほどの細い道だった。歩道もお墓も近いのに自動車が猛スピードで駆け抜けるから、なんだか怖い。
 霊園内の歩道で、ハリウッドのアクション大作に出てきそうな、サングラスをかけた金髪の美人とすれ違った。六本木近辺はやっぱり都内でも外国人の人の割合が多いと思った。
 青山キラー通りを北上して、新宿通りへ。
 皇居、赤坂御用地、明治神宮、新宿御苑と、東京都内には緑が多いこと、ネットの航空写真で確認してはいたけれど、いざ自分で周ってみると、緑の多さを実感できた。
 右足のひざが痛み出してきたので、歌舞伎町で喫茶店に入る。雑誌を読んでいる最中に会社から仕事の確認メールが届いたので、返信した。
 こうしてサイクリングを楽しんでいる最中にも、仕事の問い合わせが来るのは、自分が必要とされているからだ。サイクリングしている最中に「文章を送ってください」とか「原稿まだですか?」などの催促メールは届かない。言葉の助けを必要としているたくさんの人に、僕の文章が届くことを願いながら、喫茶店を後にした。
 家について十四時。十時から四時間の小旅行だった。電車で移動していると、駅と駅の位置関係がよくわからないけれど、一旦自転車で点と点をつなげば、それぞれの街の位置関係がわかる。中野から大手町まで、途中たくさんの駅があるけれど、近いと思った。
 東京都二十三区は、東西に狭いけれど、南北に長い。これからの休みは、映画を観たり、本を読んだり、文章を書いて時間を過ごすだけでなく、積極的にサイクリングの旅に出よう。
 いつにない運動をしたせいか何なのか、アーレント「革命について」読もうとしたけれど、文章が難しくて読めなかった。肉体を動かすと、象牙の塔でできたような難しい言葉は、読めなくなるのだろうか。仕事で疲れた人でも、すっと読める言葉で大事なことを届けることにしよう。
 夕方のニュースに、昼間見た国会議事堂で、北朝鮮の核実験について議論されていたことがわかった。厚生労働省の立派な建物の前を通り過ぎたけれど、郵便制度を悪用したとして、厚生労働省の高級官僚が逮捕されていたこともわかった。
 まあそんなもんだ。
posted by 野尻有希 at 23:18 | TrackBack(1) | 小説「競争から協創へ」(完結) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ご近所の幸せを願うことから始めて

 夜二十三時過ぎ、仕事を追えて、歩いて帰る。運動不足を解消するため、一駅分歩く。
 大通りは避けて、車一台が通れるほどの細い裏道を通る。
 住宅街。光はまばらで、人も車も通らない。
 コンクリートうちっぱなしの住宅の二階から、カーテン越しに光が漏れている。暗い住宅街の中にも、人は住んでいる。このひっそりとした町に、たくさんの人が平和な暮らしを営んでいる。
 誰の姿も見えないけれど、僕は一つ一つの家やアパートに住む人たちの幸せを願った。
 顔は見えない。知り合いでもない。それでも、ここにはたくさんの人が住んでいるということは、わかる。
 けんかする必要のない相手だ。都会暮らしで仲良しのご近所さんもいない。知り合いのないコミュニティーだけれど、みんなの生活の平安を願おう。
 コンビ二ですれ違う人はみんな他人。コンビ二の店員さんとも毎日顔を合わせるけれど、他人。
 スーパーでも同じ状況。よそよそしい都会の生活だけれど、みんなの幸せを願うことができる。自分とは関わりのない人だと、切り離すこともできる。
 どちらを選ぶだろう?
 
 自動車とすれ違った時も、自動車に乗っている人の幸せを願うことができる。歩道で人とすれ違った時も、自転車やバイクとすれ違った時も。
 満員電車に乗っている時も、一人一人の人とは他人行儀になるけれど、全員の幸せを願うことができる。
 ご近所だけに限った話ではない。平和の願いは社会に、国家にまで広げることができるし、外国の人の幸せも願うことができる。国交がある国の人だけでなく、国交がない国の人の幸せを願うこともできる。戦争の相手国の人の幸せを願うことさえできる。
 人間に限ったことではない。動植物の幸せを願うことができる。亡くなった人たちの幸せを願うことができる。これから生まれ来る子どもたちの幸せを願うことができる。
 太陽系に存在している物質全ての幸せを願うことができるし、人類がまだ知らないダークマターの幸せを願うことができる。
 僕らはやろうと思えば、どこまででも、優しさと愛情を示すことができる。
 親しみをこめて。
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2009年05月23日

平和の代償としての痛み、自己憐憫の安全保障

 自分が本当に好きなものを知っている人。
 流行に流されず、自分が好きなものを、誇りを持って指し示す人は、強い。
 
 体が痛かった。痛い痛いと文句を言えるのは、僕の周囲が平和だから。
 平和の代償としての、末梢神経の痛み。
 テレビでも、末梢神経の痛みに効く薬のCMをしている。滋養強壮、栄養補給にきくという錠剤や栄養ドリンクは、コンビ二でも二十四時間販売されている。
 
 誕生日の一日を誰にも気づかれず、終えることができた。
 誰かに「おめでとう」と祝福されることもなく、一つ歳とったことを恥ずかしがることもなく、いくらか寂しさを感じながら、誕生日を終えた。
 誕生日を誰にも祝福されない僕は孤独なのだろうか。
 そうやって、自己憐憫に陥る事ができるのもまた、僕が平和を享受しているからだ。
 限りなく安定した平和の代償としての自己憐憫。日本の平和は限りなくもろいものだなんていうマスコミの流説は、嘘だ。
 戦場で誕生日を迎えた人、自分の誕生日さえ忘れるほど日々の戦いに忙殺されている人。世界の現状から隔絶されたこの国の平和。
 世界中には、誕生日も知らず苦しんでいる人がたくさんいる。こうして誕生日について書き残している僕は、幸せであり、恵まれている。自分が与えられた幸せに感謝することもせず、孤独と自己憐憫に陥る。
 孤独に生きることができるのは、平和だから。

 批判はよくない。批判せずに受け入れよう。他人に批判されたら傷つく。批判されれば自分は傷つくとわかっているのに、何故他人を批判するのだろう。
 批判せずに受け入れればいいのに。もっとうまい言い方があるのに。アドバイスをすればいいのに。
 
 予定していたよりも、帰りが遅くなった。仕事に時間を奪われたためだ。計画が乱れたおかげで、怒りの感情を持ってしまった。
 帰り道を歩きながら、神田川に飛びこみたくもなった。
「ほんの少し、帰りが遅れただけなのに。何故そんなに怒る必要があるのだろう。冷静になれ。お前には余裕がある。お前は平和を教授している」
 自分の心の中で響く自分自身の声を、耳から聞いてみた。
 僕のすぐ側で誰かが歩いている。彼は僕自身、僕の最良の魂だ。
「心を落ち着けろ。頭に血をのぼらせるな。腰で考えろ」
 僕は腹の中心に意識を落とした。
 明日は休みだ。明日朝から晩まで活動するわけではない。少しは休むし、何もしない時間もある。ほんの少し時間が遅れただけで、何故こうも怒る必要があるだろう。明日の朝から、活動すればいいのに。
「活動する必要はない。何も活動するな。お前は全てを手にしている。お前が必要なものは、全て与えられている。何もしない時間をたくさん作るんだ。何もせずに、考えろ。行為よりも、思考しろ」
 ゆったりとした時間を持つこと。
 焦る必要はない。人生の時間は無限にある。
 時を止めること。ただ一点の時間に心を集中すること。
 情報がたくさんあれば、何も焦る必要はないとわかる。僕が何もしない時間にも、怒っている間にも、情報が生産され続ける。
 誰かが呼吸する。情報の交換が起きる。
 僕が怒りを発する。情報が交換される。
 世界に発する情報を制御しよう。
 よい息だけを吐き続けよう。
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出版競争、コンビ二の生存競争、呼吸する動植物

 本屋さんにはたくさんの本がある。けれど、本屋さんは限られた土地で、本を売っている。
 日本中の全ての本が、本屋さんで売られているわけではない。
 出版不況と言われる現在も、毎日大量の本が出版されている。新刊を全て本屋さんが並べたら、本屋さんの売り場面積がなくなってしまう。
 本屋さんは売れない本を返品する。売れない本はそのうち発売されなくなる。
 競争。
 競争は本屋さんの中だけでない。いたるお店で起きている。
 例えばコンビ二。
 コンビ二には毎日たくさんの商品が並んでいる。定番商品もあるけれど、入れ替わる商品も多い。
 お気に入りで毎日買っていたドリンクが、ある日突然売り場から消えたことがあった。僕が毎日買っているのだから、売上はあるはずなのに、商品は消える。とある店舗で、一人の人間が毎日買っていても、消える商品は消えるのだ。
 店舗の中で毎日起きている、商品の生存競争。
 生きているものは全てすばらしい。生きているだけで価値がある。全ての生命は尊い。そういうふうに理想を述べることができたとしても、店舗の中では毎日生命同士が戦っている。いや、生命ではない。本や、命を奪われ、調理された食品が、生き残りをかけて戦っている。
 はたしてその競争で勝つことは、喜ばしいことだろうか。
 最も売れる食品は、もっとも死んで行く食品ではないだろうか。
 豚肉がおいしい。
 豚肉をたくさん仕入れよう。
 豚をたくさん養おう。
 豚をたくさん殺そう。
 売れれば売れるほど、たくさんの豚が死んで行く。同胞のためには、売れない方がよろこばしいことではないか。
 ひっそりと、目立たないように生きていくことが、喜ばしいことではないのか。
 毎日毎日似たような商品と競争している。
 自然は厳しいものだ。全ての命は等しく尊いものだなんて主張は、現実に即さない偽善なのだろうか。善とは、競争に勝つ強い存在になることだろうか。
 全ての生命が同じものさしで競争すること。規格化。標準化。それは間違いだ。同じ条件での競争なんて、自然にないものだ。
 自然界の生物は、それぞれの縄張りをわけあって、共存している。
 ライオンが全ての動物を虐殺するわけではない。ライオンは必要な分だけ食べる。ライオンが残した食事は、ハイエナが食べる。
 シマウマと虎と牛とライオンが、同じ基準で競争しているわけじゃない。みんな別々の場所で、別々の生活を送っている。
 全ての生命が等しく尊いものだという考えは、真実だ。
 今日も新しい本が創られる。売れない本は返品される。
 売れない本も生命だ。元は紙だった。書いた人の心もこもっている。文章を書いた人だけではない。編集に携わった人、装丁に携わった人、印刷所で製本した人、製本した本を運んでくれたトラックの運転手さん、本を棚に並べた本屋の店員さん、全ての人の命が、売れない本にもこもっている。
 全ての本は、大切でかけがえのない存在だ。
 売れなくて棚から消えるコンビ二の商品もまた、売れ筋商品と同じくらいかけがえのない存在だ。
 売れない食品は、売れないことで、同族の命を守った。何も悲しむことじゃない。誇りを持って生きていこう。誇りを忘れないことが必要だ。
 では結局、僕は競争しないのか。競争はもうやめにします。協奏だけをして生きていきます。他の多くの作家たちと競争することをやめて、協奏だけに興じることができるのは、日本が平和だから。同時にまた、インターネット技術が発達しているから。
 インターネットの情報網が、僕を自由にしてくれる。競争から解放してくれる。
 自由になった僕は何をするだろう。遊ぶだけか。怠けるだけか。
 呼吸するだけで、地球のためになる。呼吸するだけで、たくさんの情報交換を地球と行っている。
 満員電車の中でたくさんの人が呼吸している。呼吸しているだけで、隣の人の吐息を吸いこむことになる。
 僕らは愛し合おうと願う必要もなく、呼吸するだけで、隣人たちと、命をわけあっている。生きている奇跡とは、呼吸すること。
 息を吸えば、隣人の吐息が僕の体の中に入ってくる。息をはけば、僕の命が隣人の生命の中に入っていく。僕らは呼吸し続けることで、たくさんのエネルギーと情報を交換しあっている。
 同じ家で暮らす人たちとは、たくさんの情報を共有している。
 何も話し合わなくても、呼吸するだけで、酸素と二酸化炭素の動きを通じて、一緒に暮らす人たちは、情報を分かち合っている。互いを感じあっている。
 それでも呼吸するだけが、人生ではない。 
 ともに呼吸している隣人たちに、親切にすること。
 誇りをもって、優しさを示すこと。
 誇りをもって、競争することは不要だ。
 誇りを持つにふさわしい行いとは、いついかなる時も、隣人に誠意を示すことだ。
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2009年05月22日

一人で働いていると思うと忙しくなる

 孤独だと思う必要はなかった。
 みんなとつながっている。つながっているのを忘れているから、たった一人で世界に立っていると思っているから、寂しさに悩む。息苦しくなる。
 一人じゃない。ベッドに横になりながら沿う思ったら、頭の上に乗っていたおもりがなくなったように思えた。
 何故忙しいのか。
 みんなとつながっていると思えないからだ。
 みんなになんか頼れないと思っているから、一人で仕事を抱えてしまう。
 できるのは自分だけ。
 できる? 何が?
 よくよく問い合わせてみよう。
 信頼できるのは、自分だけ。
 そう思っていないか?
 他の人間はすぐ裏切る。
 信頼できない。
 そう思っていると、自分で全部仕事をするはめになる。
 そうして孤独に働く人は他の人から「あいつは信頼おけない」と思われていることが多いものだ。
 人を信頼できることは、すばらしい。
 僕は寂しい、孤独だと思っていた。このまま愛する相手もいないまま、一人で死んで行くと思っていた。
 孤独を感じている人は、世界にたくさんいる。
 僕が孤独だと感じている時、僕の親もまた孤独を感じているだろう。
 僕が孤独を感じた時、僕が愛するはずの人たちもまた、孤独な夜に苦しんでいることだろう。
 一人だと悩む。
 愛する人もまた、孤独に悩む。
 みんながみんな、孤独に悩む。
 愛し合えばよかったのに。
 無理して愛する必要もない。
 ただ、話しかければよかったのに。

 一人で生きているわけではないと思ったとたん、肩の力が抜けた。コンビ二で働いている人、街を歩いている人、電車に乗っている人、全員が僕の家族だと思うことにした。
 同じ場所に暮らして、生きて、仕事をする家族たち。
 翌朝、歩いていても、「早く電車に乗らなきゃ」とは思わなかった。交差点で信号の待ち時間が長い。信号が青の時間も短い。
 家を出てすぐ、信号の青が見えると、走って横断歩道を渡ろうと思ってしまう。今のうちに渡っておかないと、横断歩道の手前で延々待つことになる。朝の貴重な時間がもったいないと思えた。
 今まで何故そんなに行き急いでいたのだろう?
 自分という人間は、一人の存在だと思っていたせいだ。
 そうではない。みんな家族であり、みんなが働いている。僕一人が横断歩道の手前で待っていたところで、他の人たちが働いてくれている。
 何もそんなに焦る必要はない。僕の両肩に責任の全てがのっているわけではない。
 働いているのは僕一人じゃない。横断歩道を待っている人、交差点を走る車に乗っている人、駅員さんも働いている。そして何より、信号機さんが毎日休むことなく働いてくれている。
 こうなってくるともう機械も人間も区別ない。みなが家族であり、働き手だ。みんなが毎日働いてくれているから、僕は落ち着いて、赤信号を待つことができる。
 余裕がないのは、たった一人で生きていると思っていたせいだ。今は違う。みんなで一緒に生きている。
 人間が周りにいなくてもいい。
 太陽が生きている。
 地球が生きている。
 雨が生きている。
 横断歩道が生きている。
 アスファルトが生きている。
 この輝かしい地球で、たくさんの存在が働き、愛し合っている。
 悪くない惑星だ。
posted by 野尻有希 at 00:06 | TrackBack(0) | 小説「競争から協創へ」(完結) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月20日

救急隊員として働くイメージで

 義務、責任、権利なんて、昔からある言葉を使うのは、やっぱりやめにしよう。
「かたくるしい」とはよく言ったものだ。本当に、こうしたかたい言葉を使っていると、肩が苦しくなってくる。
 肩がこるのは、何らかの規範に自分をあわせようとしたためだ。
 無理をするのはよくない。
 義務、責任、権利を主張するよりも、いたわり、やさしさ、親切を示そう。
 ケアリング。
 いつでも心に余裕をもっておくこと。
 何かに精一杯取り組みすぎて、余裕をなくさないこと。
 誰かに声をかけたら、いついかなる時も、優しい声で答えること。
 忙しくても、苦しくても、穏やかに、彼と彼女の呼びかけを迎え入れること。
 忙しすぎて、自分を見失うのはよくない。
 生活に余裕を持とう。
 いつでも、呼びかけに答えることができるように。
 必要なことだけやれば忙しさはなくなる。忙しいのは、必要ないことにも手を出しているせいだ。
 時間がないといつも心に思っているのは、必要な仕事に時間をかけていないせいだ。
 必要だと思える仕事に自分の時間を注力することができれば、満足感と余裕が生まれる。
 焦ることはない。
 本当に必要なことはただ一つ。
 いつでも呼びかけに答えることができるように、常に心の器を開いておくこと。
 救急隊員は、貧しい人でも、犯罪者でも、差別することなく命を助ける。百十番で呼びかけられれば、相手の身分、収入に関わりなく、相手の命のために働く。
 自分も救急隊員となろう。
 そのためには、自分を訓練することも必要だ。いつでも誰かの命のために仕事ができるように、常日頃から自分を鍛錬しておくこと。
 呼びかけのない日は、毎日鍛錬する。
 呼びかけられた時は、呼びかけてくれた人のために、全ての時間を捧げる。
 働くこと。
 生きること。
 誰か困っている人の支えになること。
 本当に困っている人のために、自分の時間と心を使っていくこと。
 呼びかけを待つ。
 世界中の人みんなが、僕がケアの心を向けるお客さんだ。
 お客さんという表現も失礼だろう。
 いのちだ。
 誰もがかけがえのない、たった一つの命。
 僕に仕事ができるだろうかと悩む暇があったら、多くの命の助けになることができるように、鍛錬を続けること。
 できるだろうか。
 不安になるなら、鍛錬を続けよう。
 まずは、身の回りの人の呼びかけに答えていこう。
 身の回りのごく親しい人の間で芽生える信頼関係がそのまま、世界中に広がっていくイメージで。
posted by 野尻有希 at 23:55 | TrackBack(0) | 小説「競争から協創へ」(完結) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

食物連鎖の頂点にある責任と義務

 肩が毎日痛い。
 いつでも肩があがっていて、緊張しているせいだ。何とそんなに戦っているのだろう。
 まず、食事に感謝してみよう。
 朝はコーヒーショップでホットドッグとアイスコーヒーを食べた。
 これらの食事の原材料となった命、食事を用意してくれた農家の人、飛行機のパイロットさん、トラックの運転手さん、コーヒーショップの店員さんに感謝の気持ちをあらわします。
 昼はゴマ入りのせいろそばを食べた後、ブレンドコーヒーを飲んだ。そばもコーヒーも毎日当たり前のように出てくる。当たり前の用意に食事が用意されるということは、頼めばいつでも出てくるように、少し多めに作られているということだ。余った食品はどうなるのだろうか。
 せめて僕の目の前に出てきた食事は、残さず、全て食べるようにしよう。僕たちの食卓に上ることもなく、処分される命がきっとたくさんあるはずだから。
 せめてでてきた食事はおいしくいただき、命のすばらしさに感謝を述べる。
 必要な分を必要な分だけいただく。
 夜はこんぶの煮物、ぎょうざ、スーパーのおすしを食べつつ、糖分とプリン体カットの缶ビールを飲んだ。
 スーパーの人が調理してくれたお惣菜のおいしさに感謝の気持ちを捧げながら、一口一口食べていく。
 生きていること。今日も一日無事に終えることができた。
 肩は痛いけれど、こうして文章を書いて、発表することができる。
 インターネットが僕らに与えてくれた表現の場だ。
 大切に使おう。本当に必要で、自分自身書いていて、自分の気持ちを裏切っていないと思える伝えたいことを書きとめていこう。
 今日、三食を用意してくれた人たちのお世話になった。そしてまた、三食になった動植物の命にお世話になった。彼らを食べなければ、僕は生きていけない。この運命を受け入れること。
 人間である僕は、もうよっぽどのことがない限り、他の生命に食べられる危険がない。食物連鎖の最上位にある自分の地位と責任を自覚し、何ができるのか、頭脳を持つ動物の義務として、考えながら生きていくこと。
 僕たちは動物たちよりも、よっぽど残酷ではないのか。よくわからないが、植物よりも無情で残酷なことは確かだ。
 もう新聞は取っていない。ニュースはネットか雑誌で収集する。テレビ番組の情報もネットのポータルサイトで収集する。
 面白い番組が見つかったら、見ようかと思う。後で録画してもいいのに、その日一日しか放送されていないと思うと、見てしまう。
 本当にそこまで、貴重な時間をさいて、テレビを見る必要があるのか。
 よく自問してみよう。
 他に何かやるべき仕事はないのか。
「やるべきこと」を肩と頭に乗せていると、神経が痛んでくるからよくないけれど、どうもやるべきことをやってないと反省されるなら、自分が満足するまで、取り組んでみよう。
 本当に描いていく必要があると思える現実の側面だけを、書き残していこう。
posted by 野尻有希 at 00:44 | TrackBack(0) | 小説「競争から協創へ」(完結) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月18日

クラウド化、所有から分かち合いへ

 クラウド化、クラウド・コンピューティングというのが、最近のIT業界の流行語である。
 所有から利用へ。
 なんでも欲しいもの、必要なものを自分のものにして、自分の手元においておくのでなく、必要なもの、所有すべきものも、公共の場においておくこと。
 本当に必要な時だけ、公共の場においてあるものを利用すること。
 公共の場においてあるのに、何故いつでもすぐ利用可能なのか。ネットワークでつながっているためである。
 光速ネットワークの先にある、大きなサーバーにシステム、ソフト、情報、サービス、あらゆるものがおかれている。個人は、ネットワークを介して、サービスを利用する。自分の手元に何もおいておく必要はない。
 これがクラウド化だ。
 雲の向こうになんでもある。下界が天国とつながっている。天国に富を積んでおくから、地上の富が不要になる。
 これはITに限った話でなく、世界が今後クラウド化すればいいのにと思う。
 パソコンの中に、大事なものを何もおかなくていい。
 メール、文書、画像、音楽、動画などのファイルだけでなく、メールソフト、ワープロソフトも、ネットワークの先にあるサーバーにおかれている。
 所有から利用へ。
 自動車もそうだ。マイカーは持たず、レンタルカーで済ます。駐車場代、車検代など経費がかからない。中古車の数も減るだろう。
 家もそうだ。持ち家を持つのでなく、借りる。
 仕事もそうだ、一つの会社で働くのでなく、いろいろな会社で、必要な時だけ働く。
 これって派遣社員だ。派遣社員は扱いが悪く、問題が集中しているようだけれど、本来は全員派遣社員のようになれば、世界はもっと楽になる。
 所有にしがみつくから、何だかバランスがおかしくなってしまうのだ。
 人は所有することができない。禅問答に言ってしまえば、物も所有することはできない。
 一時、自分とともに生きていくだけで、人は何物も所有することはできない。
 自分の権利も所有する必要がない。
 自分の仕事はアメーバのように流動的になる。
 
 十代の頃から、ネットに慣れ親しんだ子どもたちは、ネット上での自己表現を当たり前のものとして受け入れている。
 ネット上では、誰もが情報の発信者になれる。
 プロになる必要はない。全ての人が、アマチュアの情報発信者であり、情報受信者だ。このアマチュア同士のコミュニケーションで、情報が無限に増殖していく。
 発言するプロになる必要はないと思った。発言の機会が、インターネットによって保障されているのだから。誰もが公共の空間に言葉を送り届けることができる。
 みんながみんな、語りたいだけ語ればいい。意見を広く交換したらいい。
 お金もクラウド化したらいい。
 所有から利用へ。
 必要な時だけ、お金を利用する。そんなに溜めこむ必要もない。
 結婚したら、子どもができたら、お金がかかると言う。子どもの教育費、生活費にお金がかかるという。
 子育てもクラウド化したらいい。
 本当なら、自分で使えたお金を子どものために捧げるという発想は、所有の考え方だ。
 自分ではそんなにお金がいらないから、子どもにお金をささげること。がっつかないこと。
 自分の子ども以外の子どもにも、たくさんの子どもたちにお金を与えたいと願うこと。
 地上に富をつむのでなく、クラウドの向こうに富をつむこと。
 クラウドの向こうに本当なら、自分の手元に残すはずのものを保管するのは、あんまり意味がない。クラウドの向こうに、保管した情報を、みんなも自由に使えるたらすばらしい。
 自分だけの喜びじゃない。多くの人と喜びがわかちあえるように。
 所有から、みんなの共同所有へ。
 個人的な利用から、共同利用へ。
 わがままから、分かち合いへ。
 富のおき場所を手元から、天国へ。
 たくさんの人に、富を振りまくこと。
posted by 野尻有希 at 23:58 | TrackBack(0) | 小説「競争から協創へ」(完結) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「やるべきこと」に視神経を押しつぶされていた人

 ゆったり生きようと決めた。
 いつも焦っていた。早く成功しないといけない。
 やらなければいけない仕事が山ほどある。
 読まなければいけない本が山ほどある。
 書き残して伝えなければいけないことが山ほどある。
 情報に溺れていた。
 子どもの頃を思い出してみよう。
 手の届く情報が、身の回りのことだけに限られていた子どもの頃に意識を戻してみよう。
 必要な情報だけで生きる。
 必要な物事だけで満たされる。
 心臓の鼓動が早いのが不安だった。
 肩がいつも上にあがって、ずっと緊張しているのも気になっていた。
 これからはゆったり生きる。
 頭には、いつも「やるべきこと」があった。歩いていても、電車に乗っていても、仕事をしていても、目の前にいつも「やるべきこと」が見えていた。重苦しかった。
 今はもう、子どもになった。頭の上に、変なものは乗っていない。
 もちろん将来、やりたいことはたくさんある。けれどそれは、遠い未来の話だ。
 今は、時間がたくさんある。
 今を未来で押しつぶすのは、よくないと思った。
 ゆったりしていると、歩いているのもここちいい。以前は全く目に入らなかった街角の風景が、とても愛くるしいものに見えてくる。
 朝、視線を道路に向けてみた。二車線の道路にたくさんの車が走っている。大型車、外車、タクシー、トラック、パトカー、様々な種類の自動車。子どもの頃なら、目を輝かせて車を見ていたのに、大人になったら、「やるべきこと」に視神経を圧迫されていた。
「やるべきこと」を脇において、道路を見たら、太陽に照らされた二車線の道路が神の光景に見えた。東京の街並みをたくさんの自動車が走ること。これは幸福であり、奇跡だ。
 ビルの隙間からのぞく太陽に照らされて、自動車が走る。僕はれんがの歩道を歩いている。これは奇跡であり、幸せの実現だ。
 子どもの頃は、もっと夢に溢れた大人になりたいと思っていた。今ある僕の人生は子どもの頃思い描いていたものとは、まるで違うと思っていた。
 けれど、これでいいのだ。これが、僕が夢見ていた社会であり、自分なのだ。こうして大人になったこと、紛争が続く世界の中で、戦争もないまま、平和を維持したまま、生き延びたこと。これはたとえようもない奇跡なのだ。
 この平和と、今ある生活に感謝すること。今日もまた、一日を無事に終えた幸福に感謝の気持ちを述べること。書いて伝えること。
 今の生活は、夢の実現である。
 何の夢だ?
 自分勝手な欲望が満たされることは、夢の実現だろうか。
 子どもの頃の夢の描き方が間違っていたのではないだろうか。
 みんながみんな、長生きして、人生を終えられること。
 殺し合いにまきこまれることなく、平和な一日を毎日、何年と積み重ねること。
 これが、夢ではないか。
 基本的生活の上に、たくさんの個人的欲望を重ねることはすばらしいことだ。しかしそれ以上に、基本的生活が毎日繰り返されること。
 当たり前になりすぎていて、平和が大変幸せだということを忘れていないだろうか。
 ここは、夢の世界だ。平和が満ちた夢の国だ。
 多くの人がそう信じていないことに問題がある。そう、社会には様々な問題があるし、不幸を感じている人がたくさんいる。外国では紛争と憎しみあいが続いている。
 ならばどうするのか。
 何ができるのか。
 だまって、見過ごしているのか。
 不平ばかり連ねて、時間を無駄にするのか。
「やるべきこと」はたくさんあるけれど、まずはゆったりと、肩の力を抜いて、世界のすばらしさに目を向けてみよう。「やるべきこと」に視神経を押しつぶされたために、見落としていたすばらしさが、世界には溢れているから。
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2009年05月15日

ミッキーマウスを待つ救急車と世界の現状

 ごみ収集車の中からのぞくミッキーマウスの死体を見た翌日、出勤。
 昨日ミッキーマウスの死体があったごみ収集車の場所に救急車がいた。消防車もあるけれど、雰囲気は穏やか。あいかわらず周りにはごみ収集車がたまっている。
 救急車に乗ってきたのだろう救急隊員のみなさんが三人、歩道に立って談笑していた。
 救急隊員や消防士というと、力強い正義の味方のイメージだけれど、みんな普通のおっさんだった。
 牧歌的な田舎にいそうなおっさんが、救急車の前で談笑している。
 あまりにも平和な光景。
 誰か本当に命の危険があったのだろうか。
 大通りから横にそれる小道をのぞいてみたら、救急隊員がいた。みんなこっちに歩いてくる。僕も歩いていたから、誰か急病人がいたかはよくわからなかった。
 ミッキーマウスが急病で救急車が来たのだろうか。

「昨日ミッキーマウスの死体がごみ収集車の中にあっただろ。今日は同じ場所に、救急車がいたよ」
「嘘でしょ」連れが答える。
「嘘じゃないって。救急車と一緒に消防車もいたんだって」
 連れは笑って答えない。
 
 昼休みは、大学生の頃聴いていたヴィジュアル系のベストアルバムを聴きながら、アイス抹茶ラテを飲んだ。
 歌声がとてもよかった。こんなに歌、うまかったっけ? と思った。大学生の当時は、顔立ちがかっこいいから売れていると思っていたけど、何か違う。歌がうまい。
 プロだから当たり前なんだけど、カラオケボックスで隣からこの歌声が聞こえてきたら、歌うのをやめて聴き入るだろう。
 僕の耳が変わったのは何故だろう。ミッキーマウスが死んだせいだろうか。

 僕には力がある。けれど、力を誇示したくない。
 自分の実績なり能力を勝ち誇ることは、はしたないことだと思っている。
 では何をするのか。
 だまって見過ごしているのか。
 世界がだめだめになっていくのを。
 僕個人のことはどうでもいい。
 例えばこの国のこと。
 多くの人に頼られるとする。世界不況の中、責任を果たして欲しいと期待されているとする。
 日本は不況で、格差社会で、貧困が蔓延しているけれど、世界の中では随分と富み栄えている方だ。僕たちはその幸福を理解できるほどには、世界の現状を知ってない。
 いや知っている。知っているけど、知らないふりをして、目の前の社会を見て毎日過ごしているだけだ。
 この世界の中で、自分の責任を果たすこと。
 自信がないと主張するのはやめにしよう。
 負け癖がついていると主張するのもやめにしよう。
 劣等感、罪悪感、無力感、全て主張しても無意味だ。
 自分は「持っている」のだから。「与えられている」のだから。

 自分が持っているものを勝ち誇ることは、必要なことだろうか。不要なことだろうか。
 勝ち誇って賞賛されたいなら不要だ。
 自分の持っている資質を世界に伝えて、人々の役に立つのだと主張することは、必要だ。
 自分の資質を大切に扱うこと。
 自分を卑下しないこと。
 与えられた恵みに感謝し、多くの人と恵みを分け合う努力をなすこと。
posted by 野尻有希 at 23:52 | TrackBack(0) | 小説「競争から協創へ」(完結) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ミッキーマウスのぬいぐるみがごみ収集車の中で死んでいた

 朝の出勤。
 コンビ二でコールスローサンドイッチとカフェオレを購入。
 仕事場に向けて歩く。
 歩道沿いにいつもごみ収集車が並んでいる。ここはごみ収集車の休憩場かと思う。
 時々タクシーが縦列駐車している歩道がある。タクシーの運転手さんたちは、運転席で寝ていたり、外で談笑していたり。ここはごみ収集車の運転手さんたちが、朝のごみ収集後、談笑するための隠れ場所だろうか(昼休みもまだごみ収集車がたまっているけど)。
 一台のごみ収集車の中に、ミッキーマウスがいた。
 等身大ほどのミッキーマウスの頭と両手が、ごみ収集車のごみ取り込み口から飛び出ている。
 首から先、頭は垂れて、両手もだらりと垂れている。
 まるで首から下をギロチンで切り取られたよう。
 ミッキーマウスが死んでいると思った。
 ごみに出された特大ぬいぐるみだろうか。
 朝の牧歌的な風景には似合わなかった。
「ミッキーマウスがごみ収集車の中で死んでいた」と後でともだちに話した。
「中に人入ってたんじゃない?」
「本当に殺人だったかあれ」
 あのミッキーマウスの死体は、何かの象徴のように思えた。
 たくさんの人に夢と希望ある未来をふりまく象徴、ミッキーが、ゴミ収集車の中で死んでいる。顔と手だけを突き出して、朝の歩道にさらされている。
 まるでフランス革命が起きたようだ。
 この世界はどうなるのだろう。
 不安になる。
 予兆を感じる。
 知っているのに黙っていないで、ちゃんと伝えなさいよ。
 知らないふりをしてないで、知っているなら、やりなさいよ。
 他人事にして、傍観していないで、全部僕がやりますと言ってごらんよ。
 自分が何か言っても、ややこしくなるだけ。何の解決にもならない。
 無力感、劣等感、自己不信。
 そんなものがあっても、知っているなら、やろうよ。
 あなたは全部知っているんだから。
posted by 野尻有希 at 00:39 | TrackBack(0) | 小説「競争から協創へ」(完結) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月13日

解散総選挙の希望と絶望と

 もうすぐ選挙がありそうだ。
 いままで選挙で投票したことはない。学級委員をきめる投票や、生徒会長を決める投票をしたことはあったけれど、普通選挙で投票したことはない。
 投票しても、僕の一票なんて無力だと思っていた。僕一人が投票したところで、日本の有権者なんてたくさんいるんだから、何の力にもなれないと。投票して、信頼できる候補者が政治を行ったからといって、何も改善するわけがないとも思っていた。
 政治に対する軽い絶望感。
 個人の力の無力さに、打ちのめされていたけれど、三十歳を過ぎたせいか、考え方が変わってきた。
 僕が投票しない一方で、選挙のためにお金と時間をかけて活動している人がいる。
 彼らがたくさんの票を集める。僕が何も投票しないと、そうした人々の意見ばかりが社会に反映されてしまうのではないか。
 何もしないでいることで、何かしている人たちに、全て持っていかれるのではないか。
 それは嫌だ。
 みすみす、信頼できない彼らに社会を明け渡すのは嫌だ。そう思った。
 だからといって、次の解散総選挙に投票するかどうかはわからない。自分一人が投票したところで、世界に何の変化も与えられないだろうと思う。けれど、言葉を駆使すれば、多くの人の投票行動に影響を与えることができるのではないか。
 言葉はおそろしいものだ。映像もおそろしいものだ。音も、味覚も、何もかもおそろしいものだ。同時にそれら全ては、すばらしいものだ。それら全てを万遍なく享受すると、人生が喜びに満ちるけれど、それだけが人生でもない。では、僕はどうするか。何を食べて、何を見て、何を語るのか。誰に語るのか。
 僕の力は小さい。言葉の影響力も小さいかもしれないけれど、あきらめると、全く信頼できない人たちが、莫大な影響力を持ってしまう可能性がある。それは嫌だ。嫌なら、嫌なことが実現しないように、努力すること。子どもが嫌いな食べ物を無邪気に避けるように、素直に嫌だと気持ちを表現して、次の一手を打つこと。
 選挙とは、望む世界が実現するために行うものだろうか。大好きな世界が、もっと大好きになれるように、投票するものだろうか。それとも、嫌な社会が実現するのを阻止するために、投票するものだろうか。
posted by 野尻有希 at 23:51 | TrackBack(0) | 小説「競争から協創へ」(完結) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする