2009年04月23日

連載小説『線のバルザック』第20回

未来の世界の猫型置物の名前が決まりました。

〜〜〜

「僕は千のバルザックの世界は、現実の東京そっくりのオンラインゲームだと教わりました。個室に入ったら、体験版のプレイが始まると聞いたけれど、実際ゲームが始まれば、想像と違いました。パソコンの液晶画面の向こうにあるキャラクターを操作して、自分はバーチャルリアルの世界とは完全に隔離されたままと思っていたのに、僕は裸で六本木に放り出された。このゲームのシステムはどうなっているんですか?」
「完全にだまされちゃってるよね、このおっさん」
 岩の柱に体を預けていた巻き毛の女の子がつぶやく。
「ぼったくりみたいなもんだよ、ぼったくり被害者」暗闇にまぎれた誰かが続ける。笑い声が重なる。
「私たちみんながそうだったんだろ」
 カマエルが内に怒りをこめた冷静な声で言う。笑いがおさまる。エルはカマエルと話したことがなかったけれど、自分の味方になって意見を言ってくれたことを嬉しく思った。
「OK。君は僕たちと出会った。失礼、名前を聞いていなかったね?」
 猫型置物が招いていた手をエルに差し出した。
「エルです」
 サンダルフォンが答えた。
「エルね。僕は天草四郎時貞。よろしく」
 エルは天草四郎時貞と名乗った生き物のように動く可愛らしい招き猫と握手した。招き猫の手は固く陶器のようだったが、生温かかった。
「エルって本名でしょ。僕らみんなは、この東京で得た新しい名前で呼び合っているんだ。エルのままでもいいけど、何か他に好みの名前ある?」
「そうですね、ブービーと呼んで下さい」
 エルはゴルフでブービー賞を取った時からずっと、ブービー賞の制度はすばらしいと思っていた。
「ブービーか。みんな、今日から彼は、僕らのブービー。仲間だよ」
 女子高生たちが拍手した。おざなりでなく、熱のこもった歓迎の拍手だった。エルはこうした拍手による歓迎を、高校時代アメリカにショートステイした時、何度も目撃した事を思い出した。
「天草さん、ブービーに制服をあげたら?」
 さっきはエルのことをぼったくりの被害者と言った女子高生が提案した。
「ああそうだね。ブービー、君は現実の男の姿のままでいいの?」
「え? 女にもなれるんですか?」続きを読む
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連載小説『バルザックが千人いる』第19回

未来の世界の猫型置物の名前を「天草四郎時貞」にしようか「クーフーリン」にしようか「デミウルゴス」にしようか悩み中です。

〜〜〜

 置物だと思って見ていた招き猫が、エルの方に黒目を動かした。生き物の目に観察されている。エルは急に、自分が腰にドラッグストアの在庫一掃セールののぼり旗を身に着け、路上で死んだ兵士のブーツを履いているだけの、変態であることが意識されて、恥ずかしさを覚えた。
「ここは?」
 エルは隣のサンダルフォンに小声で尋ねた。
「私たちの秘密基地」
「さっき、呪文を唱えたから、ここにワープしてきたってわけ?」
「マクスウェルの悪魔が私たちをこの空間に連れ出してきたの」
「あの招き猫は?」
「未来の世界の猫型置物」
 招き猫は右手をあげて、こちらを招いている。左手は腹に抱えた赤い大入り袋に添えられている。体は黄色く、耳は淡い赤色、白い顔にくりっとした愛らしい目がエルを見つめている。首には水色の輪が巻かれ、喉元に「幸福」と書かれた鈴がほんのりと輝いている。
「やあ、こんにちは」
 招き猫からアニメ声優みたいな可愛らしい作り声が聞こえてきた。エルは言葉と一緒に招き猫の口が動くのを見た。
「アルマロスたちが連れてきたの?」
 招き猫が奥に立つアルマロスの方に目を向けて尋ねる。アルマロスは胸を反らして両手を組んだまま、あごをひいてうなずいた。
「君もゲームのプレーヤーかな?」
「そうです」
 エルが招き猫に向けて答える。エルの声を聞いて猫は微笑んだ。
「六本木をこんな格好で歩いていて危なっかしかったので、連れて来ました」とアルマロス。室内の女子高生たちが失笑をもらす。
「六本木がスタート地点だったんだ。誰の紹介?」猫が聞く。
「転職の面接に行ったら、イザヤという人に体験版だと言われてこの世界に招かれました」
 エルは、イザヤの声が随分前から聞こえなくなったことを思い出した。声をかけるよう呼び求めれば、イザヤは言葉を授けるのだろうか。
「ああ、イザヤね。また何も教わってないんでしょ、どうせ。危ないよな本当」
 招き猫がエルの方に体を近づけてきた。一歩、二歩と短い足を動かして、エルに歩み寄る。
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2009年04月21日

連載小説『バルザックが千人いる』第18回

 高速道路の下道を歩いていたら、マウンテンバイクに乗った女子高生の集団がこちらに向かってくるのが見えた。先ほど兵士たちと交戦していた女子高生たちは、チェックのスカートをはいていたが、マウンテンバイクに乗る三人の女子高生は、黒のミニスカートに白のベストを身につけていた。
 女子高生たちは、エルの前でマウンテンバイクを止めた。眼鏡をかけた長髪の女子高生は、白のマウンテンバイクに乗り、機関銃を二丁、クロスさせて肩にかけている。ボブカットにサングラスをかけた細身の子は、黒光りするマウンテンバイクに乗り、スナイパーライフルを肩にかけている。金髪をなびかせたスーパーモデル体型の美女は、水色のマウンテンバイクに乗って、RPG―7対戦車ロケット砲をかついでいた。
「おっさんさ、なんで裸で六本木にいるの?」
 赤いフレームの眼鏡をかけた女子高生が、半笑いしながら尋ねた。エルはまだ三十歳だし、おっさんじゃないと主張したかったが、裸同然の格好でそう言うのも馬鹿らしかったので、やめておいた。
「君たちはゲームのプレーヤーか、それともプログラムが作り出した人工人物か?」
「私たちは西東京側のプレーヤーだけど、おっさんは何?」
「僕は今日初めてこの世界に入った体験版のプレーヤーだ」
 女子高生たちは、顔を見合わせて、エルに聞こえない小声で会話し始めた。
「港区内で移動せずに話しこんでたら危険だからさ、ちょっとうちらについて来て。安全な場所まで案内するわ」
 女子高生たちはマウンテンバイクを反転させた。
「おっさん、乗りなよ」
 エルに話しかけた女子高生が片足を地面について、エルの方に振り返り、背中を叩いた。
 エルは一瞬躊躇したが、他の二人がマウンテンバイクをこぎ始めたので、女子高生のもとに向かった。女子高生の腰に手を回し、彼女の胴体を支えにして、マウンテンバイク後輪のどろよけに腰を下ろした。エルを乗せて、女子高生がマウンテンバイクをこぎ始める。自転車の二人乗りなど高校の頃以来だったので、エルは緊張した。続きを読む
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2009年04月19日

連載小説『バルザックが千人いる』第17回

エロサイトへの勧誘をもくろむ迷惑コメントばかりがついていたので(表示承認前に管理者で削除していました)、ブログからコメント機能をカットしました。小説は、ようやくヴァーチャルリアルの世界に入りこみます。


 エルは裸で、六本木ヒルズ前の交差点に立っていた。太陽の光が眩しい。いつもなら道路も歩道も車と人で賑わっているのだが、自動車も人も見当たらなかった。エルの前には女子高生の死体があった。交差点の向こうには、ぼこぼこに叩き潰された自動車の残骸が見えた。
 道路に横たわる女子高生は、制服を着たままだった。手はブランドものの鞄をつかんでいる。胸から溢れたのだろう血はすっかり乾き、制服に赤黒い跡を残していた。
「エルさん、聞こえますか」
 エルの耳元にイザヤの声が聞こえた。
「彼女は東東京のゲリラに撃たれたのでしょう。どうしますか? 彼女の物品を奪うこともできますけど」
「何を言っているんだ?」
「まだ状況を理解できないようですね。ここは千人のバルザックが書き上げた、もう一つの東京です。『千のバルザック』体験版にようこそ」
 エルは後ろを振り返った。六本木ヒルズがそびえ立っている。六本木の街には、生命の動きがない。道路には瓦礫が積み重なり、店は全てシャッターを下ろしている。
 道路の向こうで銃声がした。
「エルさん、ひとまず衣服と武器を探してください」
 裸のまま、エルは走って自動車の残骸の陰に隠れた。金属の固まりの間に人の骨が見えた。この車に乗っていた人の骨だろうか。
 銃声が近づいてくる。エルは身をかがめながら、銃声のする交差点の向こう側に目をこらした。
 爆発音がした後、火炎が吹き上がった。火炎の中から、チェックのミニスカートをはいた女子高生たちが、機関銃を連射しながら走り出してきた。
 女子高生たちを追って、火炎の中から軍服を着た兵士たちが現れた。兵士の一人が手榴弾を女子高生に向けて投げた。手榴弾が炸裂する。女子高生たちは一斉にジャンプして、手榴弾の爆風から逃れた。兵士たちが女子高生の着地点目がけて散弾銃を撃った。女子高生の一人が銃弾を浴びて悲鳴を上げながら、機関銃を連射する。兵士たちは機関銃の連射を浴びて、道路の上に倒れた。
 銃弾を浴びた女子高生も、道路に崩れ落ちた。彼女の元に仲間たちが歩み寄った。背の高い女子高生が、傷を負った彼女を背負う。女子高生たちは倒した兵士の武器を奪ってから、歩き出した。
 エルが身を隠す自動車の前を武装した女子高生が通り過ぎる。エルは女子高生たちがいなくなったのを確かめてから、兵士の死体のところへ向かった。続きを読む
posted by 野尻有希 at 14:58 | TrackBack(0) | 小説「ゲーム理論」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

連載小説『バルザックが千人いる』第16回

随分連載を中断していた連載小説『バルザックが千人いる』、2008年10月25日以来、半年ぶりに連載再開です。このまま4月中に最後まで駆け抜けます。



「ゲームのプレーヤーは、ヴァーチャルリアルの東京都内で、自由に行動します。私たちは、プレーヤーたちの自由な行動を分析し、政策提言を行っています」
「ゲームの分析を元に政策提言したところで、政府がまともに意見を聞きますかね?」
「一般に公開されている無料オンラインゲーム『ヌーヴェルバルザック』は、ベータ版であり、仮面の姿です。選ばれたプレーヤーだけが参加可能な隠しステージ『千のバルザック』こそ、日本政府、いえ、日本の未来を予測する思考の実験場になっています」
 イザヤがカクテルを飲み干した。イザヤの喉が鳴る音が、エルの耳に聞こえた。
「『千のバルザック』は、千人のスタッフによって、毎日プログラムやスクリプトが更新されています。千人のプレーヤーが、日々めまぐるしく代わるヴァーチャルの東京都内で、自由に行動します。アブジェクシオン総合研究所は、『千のバルザック』の研究を通して、日本の未来が進む最適な方向を予測しているのです」
 イザヤが脚を組み直した。ロングドレスからのぞくイザヤの脚は、細長く、ハイヒールが輝いていた。
「今までの話を聞いて、どうですか? 私たちの事業に共感していただけましたか?」
「僕は入社したとして、何を行うことになるんですか? ゲームの進行状況の分析調査ですか?」
「エルさんにはまず、『千のバルザック』のプレーヤーになってもらおうと考えています。仕事は『千のバルザック』の中で生き残ることです」
 生き残るという言葉に、エルは不審を感じた。
「もしゲームの中で死んだら、どうなるんです?」
「その場で生き返ります。『千のバルザック』はゲームですから、何度でもチャレンジできます」
 エルはジントニックのグラスに口をつけた。
「どうですか? 私たちの事業に参加していただけますか?」
「一般的に考えられる仕事とはあまりに乖離した内容だから、正直尻ごみしています。即答はできないな」
「そうでしょうね。お気持ち察します。まずは、体験プレイだけでもしてみるというのは、どうかしら?」
 イザヤがエルの方に身を寄せた。エルの心臓が高鳴る。続きを読む
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2008年10月25日

小説『バルザックが千人いる』マルチエージェントのゲーム理論(2-1)




「面接と言っても、私がアブジェクシオン総合研究所の説明をするだけです。エルさんは質問があれば、途中でいくらでも質問してください。答えられる範囲でお答えします」
 イザヤの言葉を聞いて、エルは質問する力を試されるのではないかと推理した。
「説明を最後まで聞いて、エルさんが、私たちの事業に協力してくれる気持ちがあれば、賛同の意志を伝えて下さい。その時点でエルさんの入社は確定です」
「それだけですか。僕の資質を試す必要はないのですか」
「エルさんの資質、能力は、入社してから試されます。今日は、参加する意志の確認のみです。だからこうしてお酒を飲んで、夜景でも楽しみながら、話を聞いて下さい」
 イザヤの目も声のトーンも常に落ち着いていたので、エルは逆に緊張を高ぶらせた。
 ウェイターがクッキーの添えられたチーズの盛り合わせを運んできた。
「転職支援企業から私たちの事業について聞いていると思いますが、改めて説明すると、私たちは、日本政府の政策決定に関わる参考資料を作成している、民間のシンクタンクです。事業内容の詳細はおろか、私たちに関する情報のほとんどは、表に出ていません。エルさんも疑問に思われたでしょう」
 そう言ってイザヤは、照れくさそうにはにかんだ。
 エルは、ホワイトチーズ一切れをクッキーの上に載せて、口に運んだ。口の中に入れて歯で噛み砕くと、チーズとクッキーの味が溶け合って、舌と脳が快感の信号で満たされた。
「エルさん、ゲーム等お好きですか」
「ファミコン世代ですからね。今はそれほどやりませんが、人並みには」
「オンラインゲームの『ヌーヴェル・バルザック』というの、ご存知ですか?」
 エルは『ヌーヴェル・バルザック』という言葉を聞いた時、頭の右上に、学生時代のオナンの顔が浮かんできた。
「名前だけなら知っています」
「実はあれ、アブジェクシオン総合研究所が開発したゲームなんです。もちろん製作会社名は別名にしていますが」
「オンラインゲームと、政府関係の仕事と、何か関わりが?」
「オンラインゲームの場で、私たちは政策のシミュレーションをやっているんです」
エルは『ヌーヴェル・バルザック』の公式サイトに、東京都をネット上にフルCGで再現していると書かれていたことを思い出した。
posted by 野尻有希 at 23:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小説「ゲーム理論」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月24日

小説『バルザックが千人いる』マルチエージェントのゲーム理論(1‐2)

1−2

 エルが歩いてくるのに気づくと、女性は手にしていたグラスをおいて、顔を左に向けた。緑色の髪の毛に包まれた女性の顔の彫りは深く、くっきりとした丸い瞳に見つめられて、エルは息をのんだ。
 女性は立ち上がり、エルに向けて微笑んだ。立ち上がってから体をエルの正面に向け、微笑むまでの所作は美しく、エルは彼女に魅了された。
「はじめまして、エルさんですね」
 彼女の声は深く落ち着いており、初対面の相手を前にしてもまるで緊張していなかった。
「ご挨拶が遅れました。エルと申します。今日はよろしくお願いします」
 一方のエルは、美女を前にして、声が硬く強張っていた。
「イザヤと言います。今日は硬くならずに、リラックスして楽しみましょう」
 イザヤが一際美しい笑顔を浮かべたので、エルも一緒になって微笑んだ。
 面接だから対面するものと想像していたエルは、イザヤの左に座らされて、ますます不可解な気分を募らせた。
「エルさん、何がお好きですか。ここのお酒はどれもおいしいですよ」
「飲むんですか」
 エルは当惑しつつ、イザヤのグラスに入っているのも酒なのだろうと推測した。
「どうぞ。何でも好きなものを注文して下さい」
 エルはこうしたこと一つ一つについての対応を評価されているのではと考えたが、とりあえずは勧めに従って、普段よく飲んでいるジントニックを注文した。
 外の景色を見ると、街はビルのネオンライトで覆われており、首都高を走る車もみな光り輝いていた。
「他の会社の面接と違うから、居心地悪いかもしれないですけれど、本当に楽しんで下さいね。日本の会社の面接はどこも似た形式で執り行われているでしょう。私たちの仕事は、日本を今までとは全く異なる新世界に組み替えることなんです。だからエルさんも、違和感をむしろ喜びとして味わってみて下さい」
 ウェイターがエルのもとにジントニックを運んできた。イザヤは「それでは面接を開始します」と言ってから、エルのグラスと自分のグラスを重ねて乾杯した。
posted by 野尻有希 at 07:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小説「ゲーム理論」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月19日

小説『バルザックが千人いる』マルチエージェントのゲーム理論(1‐1)

連載小説『バルザックが千人いる』

第二部 マルチエージェントのゲーム理論





 リーマンブラザーズ証券の破綻から深刻化したアメリカの株価暴落はとまらず、エルがゴルフコンペに参加した週明けには、日本を始め世界中の株価が一気に下がっていった。オフィスで働きながらもみなが歴史的な株価の暴落を心配していた。
 一方、日本人ノーベル賞受賞のニュースが二日続いてあった。確率を無視して、勢いでノーベル文学賞も日本人がとるのではないかという淡い期待は期待に終わり、エルは金曜日にあるアブジェクシオン研究所との面接に備え、仕事のペースを調整していた。
 金曜日、エルは面接を受けるため、仕事を早目に切り上げ、十九時に会社を出た。
 エルは地下鉄に乗り、六本木駅に向かった。空腹だったが、マンションに帰ってから食事にしようと思い、エルは改札を出てすぐのコンビ二に寄った。一日分の野菜がとれると紙パックに書かれている野菜ジュースを買うと、エルは歩道に出てすぐ飲み干した。
 面接の指定場所は、新築オフィスビルの一九階、レストランフロアにあるバーが指定されていた。そのビルにはアブジェクシオン総合研究所のオフィスは入っていなかった。宮野から渡された資料にもアブジェクシオン総合研究所の住所は記載されていなかったので、エルはよっぽどの特殊組織なのだろうと思った。普通に考えればバーで一次面接などありえないし、住所も秘密と言うのは異常なのだが、転職支援会社のブランドと宮野の誠意を信じて、エルは面接を受けることにした。
 エルは二十時十分前に指定されたビルに入った。入り口には警備員がおり、「どちらにいかれますか」と聞かれた。エルは「レストランフロアです」と答え、エレベーターホールに向かった。
 一九階には、中華料理店、ダイニングレストラン、天麩羅料理メインの居酒屋、創作料亭などが店を構えていた。フロアの一番奥に、面接会場として指定されたバーがあった。エルは五分前にバーの中に入った。
「いらっしゃいませ」
 うすく髭を生やした長身の若いウェイターがエルを出迎えた。
「二十時にイザヤさんの予約で来たのですが…」
 イザヤというのは、面接担当者として宮野からのメールに記載されていた名前だった。
「イザヤ様ですね。お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
 エルは前面ガラス張りの窓越しに夜景が見えるカウンター席に通された。
 カウンター席は窓沿いに並べられていた。一番奥に黒いドレスを着たストレートの長髪の女性が座っていた。
「どうぞこちらです」
 どう見てもプライベートで飲みに来ているとしか思えない女性の脇に、エルは通された。
posted by 野尻有希 at 17:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小説「ゲーム理論」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月18日

小説『バルザックが千人いる』言語ゲーム(5−2)

連載小説『バルザックが千人いる』

第一章 言語ゲーム

(5−2)

「相変わらず面白い意見を言うね、メフィストフェレス君は」
 エルの背中からファウスト博士の声がした。ファウスト博士は向かいのブースで体を洗っていた。
「ゴルフは打球の軌道をコントロールして、広いコース上の小さな目標地点に、いかに早く到達することを競うゲームであるとも言えるね。ボールをコントロールする能力を試されているようでいて、真に試されているのは、プレーヤーの自己管理能力だよ。自分が望む場所にボールを飛ばすことができるか、もしも予測と外れた場所にボールが飛んでいってしまった場合、心を乱すことなく、目標達成に向けて次のショットでリカバリーできるかが問われる。現実には役立たない無益なスポーツのようだが、えてしてスポーツゲームは、プレーヤーの自己陶冶の訓練となる」
 ファウスト博士は自分の体を清める手をとめて、エルに向けて優しい声音で語りかけた。エルも体の浄化を中断して、時折うなずきながら、ファウスト博士の言葉を受け止めた。
「それはファウスト博士が意味づけるゴルフでしょう。僕は別にゴルフを利用して、セルフコントロールを高める訓練をしていませんよ。僕は女陰にいかにボールを入れるかだけを考えて、ゲームをしている。細長いコースの曲線美は、僕の目には、女体のくびれと重なって見えます。僕はゴルフというゲームに、実学的なもの以上の芸術を感じますけどね」
 メフィストフェレスは頭にシャンプーを泡立てながら、背中越のファウスト博士にも聞こえるよう大きな声で言った。ファウスト博士は何も答えなかった。エルは自分の意見をアピールせず、自己浄化作業を続けた。
 風呂を上がって、ロビーに集まると、全体の成績発表と表彰式が行われた。ハンデの結果、メフィストフェレスは5位に入賞し、景品をもらった。
 エル、ファウスト博士、メフィストフェレスの三人は、行きと同じくファウスト博士の運転する車に乗り、東京に帰った。
 ゴルフ場を出発したのは、午後六時だった。秋の交通安全週間で、警察に捕まっているスピード違反の車が多かったため、ファウスト博士は、スピードを抑えて高速道路を走った。
 車内には、ファウスト博士お気に入りの音楽が次々とかけられた。
エルはどんな音楽がすばらしいかという二人の会話に参加せず、後部座席に一人黙って座っていた。行きの車内では、眠ってしまっては運転しているファウスト博士に悪いと想い、目を開けて過ごしていたが、外も暗く、体が疲れていたので、エルは時折目をつむって時間をやり過ごした。
 エルはマンション近所の交差点で下ろしてもらった。重たいゴルフバッグとトートバッグを部屋においてから、エルは鍵をしめて再び外に出て、近所のドラッグストアに寄った。エルはフランス産のミネラルウォーターと、ウーロン茶の二リットル入りペットボトルと、乳酸菌の入った野菜ジュースと、野菜がたっぷり含まれているとカバーに記載されているリゾットのカップを購入した。
 部屋に戻り、リゾットをオーブンレンジに入れてから、エルはパソコンとテレビの電源を入れた。
 温められたリゾットに、エルは胡麻を混ぜた納豆を入れて、夕食とした。リゾットだけでは空腹が満たされなかったので、エルは冷蔵庫にあったテキーラ・サンライズのアルミ缶を取ってきて、飲み出した。テレビニュースは、また幼児殺しの事件が起きたことと、食品会社の産地偽装が発覚したことを伝えていた。
 エルは携帯電話の液晶画面を開いてみた。オナンを名乗る人物からの新着メールは届いていなかった。続いてエルは、パソコンのメールソフトを開き、受信トレイを確認した。土曜日だというのに、キャリア・アドバイザーの宮野からメールが来ていた。
 転職支援会社の仕事は休日返上の長時間労働で大変だという噂を思い出しながら、エルは宮野のメールを開いてみた。メールには、アブジェクシオン総合研究所の面接日程が決まったと書かれていた。金曜日夜二十時、六本木で大丈夫かと書かれているのを見て、エルは手帳を取り出し、特にアポイントメントが入っていないことを確認した。


第一章「言語ゲーム」了

第二章「マルチエージェントのゲーム理論」に続く
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2008年10月13日

連載小説『バルザックが千人いる』言語ゲーム(5-1)

ゴルフ男根主義説再び……

連載小説『バルザックが千人いる』 I 言語ゲーム





 ラウンド開始前に、今日のコンペに参加する社員全員で集まり、集合写真が撮られた。エルは三十人程の集団の中で、左端一番奥に立ち、デジタルカメラに向けてはにかんだ。
 社内コンペ初参加のエルに対して、多くの同僚が声をかけてきた。エルは誰に対しても愛想笑いを浮かべて二、三会話を交わした。転職活動をしていることを社員全員に包み隠しつつ、休日の社内行事に参加している自分のことを、エルは矛盾した存在だと感じた。その数秒後、自分の真実を押し殺して行動することこそ、日本の企業で生存するコツなのだというステレオタイプ的な仮説を立てて、エルは自我にまつわるやるせなさを押し殺した。
 エル、メフィストフェレス、ファウスト博士の三人が乗るカートの運転は、メフィストテレスが担当した。ファウスト博士は横幅の広い体を助手席に預けた。エルはカートの後部座席にゆったりと座った。
 細いアスファルトの坂道を登り、第一コースにたどりつくと、二つ前の組のティーショットの様子が見えた。
 第一コースは二百八十ヤードほどで、左側は森林、右側は谷だった。コースの右は見晴らしがよく、山間部にある市町村の建物や、遠方の山脈が一望できた。
 ティーショットが放たれる度に、「ナイスショット」、「惜しい」などと周囲から掛け声があがった。
「これだけ見られていると、プレッシャーですね」と、エルはファウスト博士に言った。
「緊張する必要などないのにな。プロじゃないんだし、みんな同僚だし」
 腕を組んで様子を見ていたファウスト博士が答えた。
「緊張は、他人によく見られたい、自分の評価をあげたいという自己顕示欲から来るものでしょう。意識が散漫になっては、プレイに集中できなくなりますよ」
 奥で二人の会話を聞いていたメフィストフェレスが、二人の方に歩み寄りながら言った。
 前二組のティーショットが終わり、直前の組全員がグリーンまでたどりついたのを確認してから、エルたちはティーショットを打ち始めた。ファウスト博士も、メフィストフェレスも、フェアウェイに乗るドライバーショットを決めたが、エルの第一打は、左側のラフに反れた。
 それからも、エルのショットは左右に乱れて、スコアが二人から引き離されていった。ファウスト博士はエルに声をかけながらラウンドしたが、メフィストフェレスは、次第にエルと会話もしなくなった。
 エルは自分のプレイによって、二人のペースが遅く乱されていることを申し訳なく思ったが、如何せんコースに出るのが二回目の初心者であるエルは、真っ直ぐボールを飛ばすだけで精一杯だった。グリーンまでの短い距離をきっちりピン傍に寄せるアプローチショットなど、ファウスト博士もメフィストフェレスも丁寧に決めたが、エルはショットの強さとボールが飛ぶ距離の相関関係を測れずにいた。
 ファウスト博士は、エルのコーチであるかのように、ゴルフ上達法を伝えていったが、メフィストフェレスはカートの運転席に乗ってほくそ笑んでいるだけだった。
 十八ホール終了して、エルのスコアは百五十二だった。ファウスト博士とメフィストフェレスはともに百台で、五十のスコア差がついた。
 ラウンドを終えて、エルたち三人は、ロッカールーム奥の浴場に向かった。他の参加者はすでに風呂上りの着替えも終えており、風呂に入るのもエルたちが最後になった。
「エル、コースに出るのが早過ぎたんじゃないか」
 浴室で、メフィストフェレスがエルの隣に座り、声をかけてきた。
 エルはシャワーを浴びながら、メフィストフェレスの体を見た。メフィストフェレスの体は細く真っ白で、体毛も無かった。
「足を引っ張って悪かったな。次はがんばるよ」
 エルは、またゴルフコンペに参加することはないだろうと想いながら答えた。
「ゴルフというゲームは、男根のようなクラブを振り回して、女陰のようなホールに、精子のようなボールを落とすスポーツだ。紳士のスポーツと言われるが、どう考えても男根主義的で、性の神秘を象徴化した儀式だな。一番少ない打数で、すなわち誰よりも早くボールをホールに垂らした者が勝者になる。しかも一回のプレイではない、十八回プレイして、最終的な勝者が決まるんだ。実に卑猥なゲームだよ、本当に」
 そう言うメフィストフェレスのペニスが膨らんでいるのをエルは確認した。
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2008年10月12日

小説『バルザックが千人いる』言語ゲーム(4-2)

純文学でゴルフを描いた小説はあまり存在しないと思います。経済の匂いが著しいゴルフは、文学の旧態依然とした制度にそぐわないものですから。


連載小説 『バルザックが千人いる』 I 言語ゲーム


(4-2)


「ゴルフも仕事も本質は同じだ。僕は両方のゲームに参加する」
「エルらしい答えだな。今から五分後にそちらに着く。ファウスト博士のは青い車だ。よく覚えておけ」
 電話が切れた。メフィストフェレスはファウスト博士に頼まれて、僕に電話してきたのだろうとエルは推測した。
 きっかり五分して、青いセダンが交差点の向かい側にあるコンビ二の前に停車した。エルが赤信号になるのを待ってから横断歩道を渡ると、ファウスト博士とメフィストフェレスが車から出てきた。
 ファウスト博士は、四十代半ばと噂されていたが、髪は全部白髪で、ボブカットだった。眉毛と目は、長い前髪の下に隠されていた。中肉中背の体に白のサマーセーター、ノータックのストレートパンツを身につけており、異様な髪型を除けば、いかにもサラリーマンが休日ゴルフに向かう格好だった。
 メフィストフェレスは細身の体に上下黒のタイトな服装をしており、頭にはシルクハットをかぶっていた。ネクタイの着用が義務付けられている社内で、メフィストフェレスは時折蝶ネクタイを身につけて出社していたから、目立つ存在だった。社内でもシステム開発部は地味な容姿のものが多かったが、調査研究部は二人のように日本サラリーマンのステレオタイプから外れた容姿の者が多かった。
「おはようございます」
 エルは次長職であり、年輩のファウスト博士に挨拶した。メフィストフェレスはエルの一つ上の先輩にあたったが、エルは特に挨拶しなかった。
「遅れて悪かった。腹痛と持病の頭痛に襲われてね。ちょっとコンビ二によっていいかな」
 ファウスト博士がボブカットの白髪をかいて、照れくさそうに言った。
 エルの荷物を車のトランクに積んだ後、エルたちは三人でコンビ二に入った。ファウスト博士はコンビ二の奥にあるトイレに入った。エルとメフィストフェレスは会話もせず、菓子売り場や雑誌売り場を別々にたむろした。メフィストフェレスは炭酸飲料のペットボトルを購入したが、エルは何も買わなかった。
 三分ほどしてファウスト博士がトイレから出てきた。
「よし行こうか。集合時間には遅れるけど、ラウンド開始には、飛ばせば間に合うだろ。あ、ちょっとだけ待ってもらえる? ビタミン剤を買うから」
 ファウスト博士はビタミン剤が並ぶ棚の前に立って、しばらく逡巡した後、小さな袋を二つ手にとって、レジに向かった。
「あの歳でビタミン剤か。無意味な気休めだな」メフィストフェレスがエルに聞こえるようにしてぼやいた。
「お前はビタミン剤、とってないのか?」とエルが言った。
「とってるよ。健康の自主管理は、現代人の務めだからな。自己をコントロールすることによって、人類は自己信頼感を保持することができる」
「なら、ファウスト博士の行動だって、そんな批判することもできないだろう」
「最早コントロールできない病に対して、コントロールしようとしても無意味なんだよ。自己信頼感だけを増やしてみても、客観的にみて、信頼できなければ無力だ」
 エルもメフィストフェレスも無表情で会話を続けた。
 コンビ二を出た後、メフィストフェレスが先に助手席のドアを開けたので、エルは後部座席に乗った。運転席の後ろのシート上には、分厚い外国語の書物が積み上げられていたので、エルは助手席の後ろに腰かけた。次長職のファウスト博士の車は内装が綺麗で、よく整備されていた。
 自動車でゴルフ場に向かうまでの間、メフィストフェレスが時事問題や会社の内部事情などを饒舌に喋った。ファウスト博士は無作為にふられる広いテーマ全てに的確に答えていたが、エルは会話に参加せず、景色を眺めていた。エルは部署も違う二人と面識がなかったが、家が近く、さらにはラウンドが一緒になったということもあり、ファウスト博士から同乗するよう誘われたのだった。エルは時折意見を求められた時のみ発言したが、後のほとんどは、まるで後輩のメフィストフェレスが、ファウスト博士の知力を試しているようで、不快なやり取りだと想いながら、無言で時が過ぎるのを待った。
 二時間後、エルたちは群馬県の山間にあるゴルフ場に到着した。ゴルフを始めたばかりのエルは、埼玉や千葉のゴルフ場にしか行ったことがなかったので、高地にある今回のゴルフ場は風景の見晴らしもよく、コースからの眺めも最高だろうと感じた。
 ロッカーでゴルフウェアに手早く着替えた三人は、みんなが集まっている集合場所に向かった。エルはメフィストフェレスがゴルフウェアに着替えた後も、シルクハットをかぶっているのが気になったが、口に出して意思表示することはなかった。
 エル、ファウスト博士、メフィストフェレスの三人は、八組に分かれた組の中で、インスタートの最後の組となった。元々のメンバー表では、インスタートの二番手だったが、到着が遅れたのが原因で、最終組に回されたのだった。
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2008年10月10日

小説「バルザックが千人いる」言語ゲーム(4−1)

ゲームの参加者が増えるばかり。


小説「バルザックが千人いる」
第一章 言語ゲーム





 週末、エルは会社のゴルフコンペに参加した。エルは今まで、テレビゲームの中でしかゴルフをしたことがなかった。ゴルフなど現状の社会を肯定するブルジョワがやるスポーツだと、反骨精神むき出しで考えていたエルだったが、会社内で流行り出し、同僚に誘われて、ようやく始めたのだった。
 いざゴルフを始めてみると、クラブを振って、球を打つことが、この上ない喜びとなることをエルは知った。
 何のことはない、小さな白球を金属製のクラブで叩いて遠くに飛ばすだけなのだが、普段サイクリングとウォーキングとヨガという、非暴力的な運動しかしていないエルにとって、力任せに球を打ち飛ばすことは、自分の中に眠る暴力的衝動をイノセントな流儀で解き放つことができる貴重な機会だった。
 エルは朝六時二十分に目を覚ますと、緑と白のストライプのTシャツの上に、ボタンダウンの黒い半袖のシャツを着て、茶色いストライプ柄のパンツを履いた。カーキ色のトートバッグにはゴルフウェア、帽子、天然黒革のグローブ、着替えの下着、眼鏡、まだ新品のゴルフシューズを詰め込んだ。
 白光りするゴルフバッグは、ネットショッピングで左利き用のゴルフクラブ十三本セットを購入した時、おまけでついてきたものだった。ゴルフバッグのポケットには、同じくクラブセットのおまけでついてきたボールを一ダースほどと、ティーを二ダースほど、マーカーを五個入れた。
 荷物で膨れ上がったトートバッグとゴルフバッグを持って、明るい茶色の革靴を履いて、エルは玄関の外に出た、秋の冷たい外気が、半袖のシャツからはみ出た腕には冷たかった。
 エルは室内に戻って、半袖のボタンダウンシャツを脱ぎ、黒いチェックの長袖シャツをTシャツの上に羽織った、トートバックの中には、先週末セール品で購入したばかりの長袖のゴルフウェァを詰め込んだ。
 マンションから出ると、エルは向かいにあるコンビ二で、五百ミリリットルのミネラルウォーターと納豆巻きを購入した。エルは重たいゴルフバッグをかついで、車の待ち合わせ場所である青梅街道沿いの交差点に向かった。
 土曜日の早朝では、平日ほどの通行人はいなかった。納豆巻きをかじりつつ、ミネラルウォーターを飲みながら、エルは迎えの車が来るのを待った。今日は会社の調査研究部門に属する、ファウスト博士が迎えに来ることになっていた。
 エルは交差点を行きかう車を眺めながら、見たことも無いファウスト博士の車はどれか判別しようと試みたが、不可能だった。ファウスト博士からは、七時前に到着すると言われていたが、それらしき自動車はまだ見当たらなかった。
 七時を五分ほども過ぎて、何かトラブルでもあったのかと心配し始めた頃、ポケットに入れていた携帯電話が鳴った。携帯電話を手に取ると、昨日赤外線通信で登録したばかりのファウスト博士の携帯番号が液晶画面に表示されていた。運転しながら電話したのかと想いながら、エルは電話に出てみた。
「世界の半分はゴルフゲームで、もう半分は仕事だ。ならば、お前はゴルフに参加するか、それとも働くのか」
 電話口に聞こえる人を小馬鹿にした声音は、ファウスト博士のチームに所属しているメフィストフェレスのものだった。
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2008年10月09日

小説「バルザックが千人いる」第一章言語ゲーム(3-4)

丁寧に描写しながら物語を書き進めているので、まだたどりつきませんが、この小説が描こうとしているのは、マルチエージェントのゲーム理論です。


小説『バルザックが千人いる』第一章 言語ゲーム


3-4


 エルは転職活動を始めてからというもの、いつも以上に体のふしぶしが疲労するようになっていた。夕方近くになると、目、頭、肩、腰と鈍重な痛みが走るのだった。エルは大学時代の一時期、毎日ヨガをし、肉はとらず、瞑想する日々を続けていたが、会社組織という俗世の極致にある組織に所属してみて、肉をまた食べるようになったし、ヨガもしなくなった。
 自分が意識的に思っている以上に転職活動が脳を疲れさせていると感じたエルは、脳に蓄積された痛みの記憶を取り除くため、ヨガの日課を復活させたのだった。最近は指にものが触れただけで、指先から首まで神経痛が走るほどエルは疲労していたのだが、ヨガを続ける内に、痛みは本当のものでなく、脳が増幅させているのだとエルは気づくようになった。そのうち長時間のパソコン作業で衰えていた視力までもが回復し、エルの脳は、大学時代の頃のように明晰になっていった。
 ヨガのポーズを一通り終えたエルは、部屋の照明を全て落とし、頭を座布団の上にのせて、フローリングの床の上に寝た。ベッドの上で、枕を使って寝ていると、体が痛むのだった。エルはこの疲労と痛みの原因が長時間労働にあると考えていたのだが、自分の人生を支えていくしっかりとした自信がないことこそ、疲労の原因だと悟ったように想い始めていた。神の存在が己に絶対の安心を与えてくれなければ、自分一人の知恵で、己の生を支える必要があったが、エルはこれから死ぬまで、確固とした道のりを歩めるのか不安であった。
 不安は自分一人の我欲から生じるものであり、我欲に囚われているからこそ、自分のみじめさ、頼りなさしか見えないのではないかと、エルは暗闇の中で、フローリングの硬い床の上に身を横たえながら思念した。
 今日自分が一緒に仕事をした人、電車に乗った人々、面談を受けた宮野の顔、夕食を食べた店で見かけた人の顔を思い起こせば、確固たる自信を顔にみなぎらせて生きている人は皆無であり、不安や緊張にとらわれて生活している人ばかりであった。自分の哲学をして自分の生を打ちたてること、もしそれが叶わぬ夢であったなら、人格や意識はないかもしれないが、古代の人が神と想像し崇めていた、宇宙の諸法則に自分の生を委ねること、それをエルは願った。
 宇宙の諸法則に流れる通奏低音のような原理とは何なのか、想いを馳せている内に、エルの脳は信号の速度を緩め、エルを眠りに導くのだった。
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2008年10月07日

バルザックが千人いる〜「I 言語ゲーム」(3-3)

先日タイトルを改めた連載小説『バルザックが千人いる』ですが、ただ今連載中の章の表題を「言語ゲーム」にすることに決めました。突然で申し訳ありませんが、生もののウェブ連載企画なので、何卒ご了承下さい。次章の表題は「権力への意志」とする予定です。


連載小説『バルザックが千人いる』


I 言語ゲーム


3-3


「『ヌーヴェル・バルザック』の舞台は、現代の東京です。東京都の街並みをそれこそ文豪バルザックの描写のごとく、3DCGで忠実に再現しています。プレーヤーはバルザックの小説内で活躍した二千に渡る登場人物のごとく、ネット上の東京都で、一人の人間として、生を得ます。現実よりも現実的な超現実の空間で繰り広げられる第二の人生をお楽しみ下さい。」

 エルは製作者が書いたゲームの説明文を黙読した。説明文の下には、ゲームプレイ中の様子を写すCG画像が何枚か貼られていた。
 渋谷のセンター街でたむろする若者たち、秋葉原でコスプレしながら路上で踊るオタクたち、丸の内らしきオフィス街で昼食のサンドイッチを買って、公園を歩くOL、奥多摩らしき大自然の中でマウンテンバイクを駆ける男たちの画像が、エルが今まで見たどのCG画像よりも写実的に描かれていた。どの場面も人物描写はおろか、街並みの描写がニュースやドラマの映像で見かける現実の街そっくりで、バルザック並みの細密さで東京が再現されているといううたい文句はあながち嘘ではないとエルは判断した。
 オナンはこのゲームをプレイしているのではと推測したエルは、無料という言葉につられ、ログイン用のIDだけでも登録してしまおうかと思い立ったが、すぐに行動するのはやめて、しばし考える時間を持つことにした。もしここでログインして、すぐにオナンと出会えたとしても、オンライン上に出現したオナンと名乗るCG画像が、オナン本人とは断定できないと推測したためであった。
 エルは子どもの頃、家庭用テレビゲームなら同年代の友人たち同様遊んだことがあったが、パソコン上で、しかも複数のプレーヤーが参加するオンラインゲームを遊んだことはなかった。オナンもゲームマニアというほどでなく、「ドラクエ」や「FF」などを人並みにしかやったことがないはずだから、オナンが「ヌーヴェル・バルザック」をプレイしているとは、にわかには信じられなかった。
 オナンはもう会社で自殺したはずなのだから、あれこれと推測して心を煩わせるのはやめにしようと決めたエルは、パソコンとテレビの電源を落とし、部屋の照明を落としてから、キース・ジャレットのCDをかけた。背筋を伸ばしてパソコンのキーボード作業による体の変形を解除した後、エルは日課として繰り返していたヨガを始めた。

…本作品の主要参考文献は「続きを読む」で閲覧できます…続きを読む
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2008年10月06日

バルザックが千人いる(3−2)

己が生きている証として、己の生の鏡として、己の主観を客観化して提示する作品を打ち立てること、そのような近代的芸術観にそって、この小説は書かれています。


連載小説『バルザックが千人いる』(3−2)


 エルは管理画面に戻り、新着記事を書くことにした。記事ではアブジェクシオン総合研究所のことには触れず、電車に乗った時、自分の両隣に座っていた男女が、同じパズルゲームを遊んでいたことを話題にした。その後、オナンからメールが来たことにも触れず、大臣の暴言に関する自分の意見を書き留めた。
 続いてエルは、毎日書き綴っている書評を書くことにした。エルは読み終わった書物の書評を必ず書いていた。有る程度体系的に書評をまとめようと考えたエルは、プラトンによるソクラテスの対話篇から初めて、アウグスティヌス、デカルト、カント、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、ハイデガー、フーコー、ドゥルーズ、デリダ、スピヴァクと西洋哲学の歴史を紐解くようにして書評を書いていった。
 書評を書くために、エル自身教養として書名と要点のみ知るだけで、実際読んだことのない書物を読んでみると、新しい発見があり、こうした機会でもなければ、古典を読むことも無かっただろうと思えた。そのうちエルは人文系だった自分の知的限界を超えるため、現代物理学や数学、生物学の一般向け教養書籍も手にとって、書評を書くようになった。
 今日エルは、一昨日読み終わっていたドゥルーズの『差異と反復』についての書評を書いた。エルにとってドゥルーズこそは、人文科学と自然科学の領域を超越した、というか両者に共通する概念を取り扱う、二十一世紀の学問を先取りした哲学者だった。
 差異と反復の概念と複雑系の学問の類似性を指摘した後、エルは書評記事をあげて、ブログの管理画面を閉じた。
 ブラウザ上には、インターネットのホームに設定している検索サイトの検索キーワード入力画面が開かれた。エルはふと、オナンのメールに書かれていた「ヌーヴェル・バルザック」という言葉を検索してみようと思い立った。
 エルはキーワード入力欄に「ヌーヴェル」と入力した後、半角スペースを空けて、「バルザック」と入力した。検索ボタンを押すと、画面上に入力されたキーワードによる検索結果、八千件のうち、最初の十件の概要が表示された。
 検索結果の先頭に「無料オンラインゲーム ヌーヴェル・バルザック」と表示されていた。その下には、ヌーヴェルバーグやバルザックに言及したサイトがいくつか続いていたが、ページをスクロールすると、先程のオンラインゲーム「ヌーヴェル・バルザック」に言及したサイトが並んでいた。
 エルは検索結果先頭に表示されているのは、オンラインゲーム制作会社の公式サイトだろうと判断し、「無料オンラインゲーム ヌーヴェル・バルザック」と書かれているリンク先のページを開いた。
 エルはオンラインゲームだと聞いて、近代フランスを舞台にしたファンタジー色の強いアニメ調のCG画像が並んでいるかと思っていたが、リンク先のページには、現代の新宿都庁前らしい高層ビルと緑木の街並みが、3Dフルポリゴンの精密なCGで再現されていた。


…本作品の主要参考文献は「続きを読む」で閲覧できます…続きを読む
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2008年10月05日

バルザックが千人いる(3−1)

連載小説のワークタイトルを「社会理論の実効性をはかるシミュレーションゲーム」から「バルザックが千人いる」に変更しました。前のタイトルにはあまりに即物的なので、少し表現を柔らかくしてみました。



連載小説「バルザックが千人いる」





 エルは坦々つけ麺を食べ終えると、食器をカウンターの上に載せて、軽く礼をしてから店を出た。青梅街道には、相変わらずひっきりなしに車が行き交っていた。秋が深まったせいか、夏用のスーツでは、夜の空気は肌寒かった。エルは足早に青梅街道沿いの歩道を歩き、ワンルームマンションに帰った。
 玄関のオートロックを開けて、エレベーターに乗り、五階の自室にたどりつくと、エルはスーツを脱いで、三十九度のシャワーを浴びた。
 シャワーの水流を体前身にゆっくり当てて、筋肉の疲労を取ると、エルはバスルームから出て、バスタオルを手に取った。
 エルはテレビとノートパソコンの電源を入れてから、クローゼットからグレーのボクサーブリーフと白無地のTシャツを取り出し、体に身につけた。
 冷房無しでも肌寒かったから、エルはTシャツの上に赤いチェックのネルシャツを着ることにした。春以来久々に手に取ったシャツからは、無臭とうたいながらも、防虫剤独特の匂いが漂ってきた。
 エルはクローゼットの奥からスウェットのパンツを探し出し、両足を通した。スウェットの生地からも防虫剤の匂いが漂ってきた。
 エルは起動中のノートパソコンの前に座り、脇にある液晶テレビの画面を眺めた。
 テレビではニュース番組が放送されており、暴言を吐いた新政府の閣僚が辞任したというニュースが流れていた。
 就任早々の閣僚は、現代日本社会に起きる問題の原因を日教組と決め付け、日教組批判を繰り返していた。今ある社会の問題を教育の不備に求める論説は多いが、日教組という団体を名指しで批判する意見表明は幼稚だった。
 社会に起きている問題を誰か特定の組織のせいにすると、気分的に楽だが、現代社会組織は複雑であり、特定の誰かに問題の原因を帰着することは不可能だというのが、ブログ上で繰り返されたエルの持論だった。日教組に社会問題の全ての原因を帰着させる閣僚の振る舞いは、社会正義をうたう報道陣だけでなく、一般の視点からみても、滑稽だった。
 日本社会が何かおかしくなった原因は、日教組のせいだという短絡な論理展開を大臣が口にすること、日教組を口汚くののしる彼の振る舞い自体が、日本が異常だということの証明であるとエルは感じた。彼自身は自分の正義を信じ、日教組を批判することが、大臣という要職を投げうってまでしても日本にとって必要なことだと覚悟しての行動だろうが、それはあまりに時代の現状とずれた行動であり、彼および与党の人材、統治能力のなさを嘆く人の方が多かろうとエルは憐れんだ。
 パソコンの起動は終了し、画面上に音楽ソフトとメールソフトのウインドウが起動した。
 音楽ソフトは、USB経由で接続したアイポッドと同期を開始しており、アイポッドとパソコンのハードディスクの間で音楽データの相違がないか確認していた。
 エルはメールソフトのウインドウをクリックし、前面に出して、新着メールを確認した、広告メールが大量に届いていた中で、キャリア・アドバイザーの宮野から、先程別れたばかりなのに早速メールが届いていた。携帯に届いた同僚とオナンからのメールも、パソコンのメールアドレスに転送されていた。
 メールには、今日エントリーの意志を告げた企業の資料がパワーポイントやワード形式で何点か添付されていた。アブジェクシオン総合研究所の資料がないかエルは確認したが、含まれていなかったので、エルは添付ファイルも開かずにメールソフトを終了した。
 続いてエルはインターネットのブラウザソフトを起動し、検索ポータルサイトでニュースやテレビ番組表を確認した後、もう一つブラウザ画面を開き、お気に入りから自分のブログの管理画面を開いた。エルはまず今月のトータルアクセス数と昨日一日のアクセス数を確認した後、ブログの画面を開き、コメントやトラックバックがついていないか確認した。何件かコメントがついていたが、どれもアダルトサイトへの誘導を狙った迷惑コメントだった。
posted by 野尻有希 at 22:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小説「ゲーム理論」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月30日

「社会理論の実効性をはかるシミュレーションゲーム」(2−2)

僕の小説に、エルとオナンという名の人物が登場するのは、今回の小説で3回目です。オナニーの語源となったオナンこそ、近代的自意識の最初の人であり、現代社会を考える上で外せない対象であるとの考えから、エルとオナンが登場します。創世記に存在した二人は絶えず、現代世界に疑問を投げかけてくれます。



連載小説「社会理論の実効性をはかるシミュレーションゲーム」(2−2)



 エルは人の体に触れないよう注意しながら電車を降りた。スーツのポケットから携帯電話を取り出してみると、会社を出てから今まで気づかなかったが、二通メールが来ていた。
 一通は、同僚からの仕事に関する問い合わせだった。時計を見ると、午後八時を少し過ぎたところだった。まだ働いていると感じたエルは、会社の電話でなく、メールを送ってきた相手の携帯電話に電話をかけて、メールに気づかなかったことを詫びつつ、やるべき作業を的確に指示した。
 もう一通のメールは、大学時代の友人であるオナンという男からだった。
 オナンは、エルが大学一年生の頃に知り合った、語学クラスの友人だった。大学一年目の春、語学クラスのメンバーで合宿に行った時、オナンは高速バスの社内で大便をもらした。その時、オナンの隣に座っていたのがエルだった。
 高偏差値の入学試験を突破した受験エリートが集まった大学だったが、大便をもらしたオナンのことを、男子も女子も気持ち悪いと罵倒した。オナンは大学一年生にも関わらず、小学生のように、その場で涙を流して悔しがった。その後、オナンは語学クラスに出席しなくなり、必修の単位を落とした。
 エルはその事件をきっかけにというか、元々読書の趣味や性格が符号したことも影響して、オナンと大学時代一番の親友となった。
 エルとオナンは毎日深夜のファミレスでドリンクバーを頼んでから、哲学、文学、音楽、現代思想について語り、現生人類社会が抱える課題を翌朝まで論じ合った。
 エルは大学時代二年留年したが、オナンも二年留年した。エルは生活習慣が不規則でだらしないオナンと毎日一緒にいて、授業に出なかったから留年したのだと主張したが、オナンは、それは言い訳に過ぎないと断じた。その一方で、オナンは、自身の留年については、エルがアカデミズムの無意味性を証明したせいだと言い訳していた。エルはこの主張については反論せず、自分たちが下した証明とオナンのだらしなさを肯定した。
 大学卒業後、オナンは英会話教室の営業職に就職した。エルはオナンに営業職など勤まるはずがない、常識のないオナンには就職自体無理だから、大学院に進めと説得した。オナンは人間失格のお前に言われたくないと助言を無視し、営業職として就職した。
 卒業後、あれほど親しかったのに、オナンからエルへの連絡はなかった。エルの方からオナンの携帯に電話しても、いつも留守番電話になった。持ち主の留守を伝えるメッセージはそのうち、「この電話は現在使われておりません」というメッセージに代わった。
 オナンのことも忘れて仕事に没頭していた社会人二年目の夏、エルは共通の友人から、オナンが会社のオフィスで首吊り自殺したらしいという話を聞いた。エルは、突然の死の知らせを聞いて驚いたが、オナンなら自殺もありうると妙に納得した。聞けば就職した年の秋口に自殺したということだったが、友人の死を一年近く遅れて知ったことにも、自分に何の相談もなかったことも、あらゆる待ち合わせに遅刻していたオナンらしいとエルは納得した。
 自殺したはずのオナンからメールが来たことにエルは混乱した。エルは地下鉄から出てすぐマンションには帰らず、つけ麺の店に寄った。アンビエントの流れる店内で、白胡麻坦々麺の卵入りつけ麺を頼んだ後、エルは一番奥の席に座り、オナンからのメールの文面を確認した。
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2008年09月29日

社会理論の実効性をはかるシミュレーションゲーム(2−1)

まだシミュレーションゲームは始まりません。

連載小説「社会理論の実効性をはかるシミュレーションゲーム」






 ビルの出口は、東京駅に直結する地下通路が広がっていた。エルはビルのセキュリティーゾーンから出てすぐ、スーツの内ポケットからアイポッドを取り出し、マーラーの交響曲第一番を聴きながら歩いた。
 途中、地下通路内にある面積の狭いコンビ二に立ち寄り、低脂肪の深煎りコーヒーと、ストレス軽減によいとされる成分GABAが入っているチョコレートを購入した。コーヒーは改札まで歩くうちに飲み干したが、チョコレートは明日の午後食べるために、鞄の奥、折りたたみ傘の上においてしまった。
 地下鉄の改札前は、仕事帰りのビジネスパーソンで溢れていた。東京駅で乗客がたくさん降りたので、エルは座ることができた。長い席のうち、ドアとドアのちょうど真ん中のスペースに座ってすぐ、エルは鞄からルーマンの『制度としての基本権』を取り出した。大型書店の店名が記入されたしおりを挟んでいるページを開くと、エルはアイポッドでワルター指揮による交響曲の演奏を聴きながら、ルーマンの晦渋な文章を読みふけった。
 エルの左隣に私服姿の小太りな中年が座ってきた。彼は登山用リュックサックから携帯ゲーム機を取り出すと、手に持って熱心にボタンを操作した。男のハーフパンツからはみ出る太い脚は、太く長いすね毛で覆われていた。
 一分か二分経たないうちに、次の駅に電車がついた。エルの前に、薄いグレーのスーツを着た、細身の若い女性が立った。彼女は携帯電話を操作しながら電車に入ってきて、電車が動き出してからも、ずっと携帯電話のボタンをいじっていた。
 電車が進んでもエルの右隣は空席のままであった。車内が混みあってきたので、エルは右隣においていた鞄を自分の膝の上に乗せた。エルの前に立っていた女性が、携帯電話を操作しながらエルの隣に腰を下ろした。
 座ると、彼女のミニスカートからはみ出す白い脚が目について、エルは目のやり場に困った。少し目をあげると、彼女が見つめる携帯電話の液晶画面に視線が当たるし、かといって左の方に体を向ければ、携帯ゲーム機の液晶画面に目が行ってしまう。エルは仕方なく、本にしおりを挟んで閉じ、マーラーの交響曲に耳を研ぎ澄ませた。
 弦楽器が奏でる旋律と共に、エルの頭の中には、アブジェクシオン総合研究所の資料と、宮野の顔のイメージが浮かんできた。
 エルは五年働いてみて、企業活動の場において、自分が本心から喜びつつ、活躍する姿を想像できなくなっていた。それは彼が希望していないシステム・エンジニアの仕事に従事しているからというわけではなかった。たとえ希望する調査研究員の仕事をしたとしても、自己実現なり達成感は得られないだろうとエルは悲観していた。
 企業で働くということは、組織集団が欲する役割期待に、自分の能力を適合させるということである。エルは働くうちに己の仮説を確信するようになっていき、同時に、組織集団の期待に答えることが、器用になっていった。期待に答えることが上手くなればなるほど、エルの本心は表出することが少なくなっていった。
 エルが己固有の欲望と自由の発現を感じることができたのは、誰にも束縛されず、自分のやりたいように活動できる、ネット上の空間だった。エルは企業集団に自己を適合させてからは、しばらく記憶の底にしまいこんでいた大学時代の論考の続きを、自身のブログに書き連ねてみた。周囲の人とは共有できない話題をブログで、誰か理解してくれる人がいると想いながら書き連ねることで、エル自身の欲望は最初満たされたが、ブログに並べた言葉が社会的に注目されたり、期待したほど多くの人に必要とされないことが理解されてくると、エルの心はまた悲観に浸るのだった。
 結局、自身の価値を承認してもらうには、集団の期待に答えるしかない。その現実を理解したからといって、アクセス数アップを狙う記事を増やすことは、エルが会社で毎日繰り返している「組織の期待に答える」という過程と何ら変わらなかった。みなの欲望満足を求めて記事を書けば、今度はエル個人の欲望が抹殺されるという事態にいたることが容易に予想された。
 この八方塞のような状況を抜け出すためにどう行動と思考を変えていけばいいのか、エルはいろいろ努力してみたが、想いつくのは妥協策ばかりで、心を充実させる解決策は見出せていなかった。
 エルは自分のことを、社会不適合者ではないかと思い悩み始めていた。普通以上にサラリーマンとしての勤めを果たしているし、不自由なく暮らせる資産もあるし、法に触れる罪も犯していないが、心のどこかに常にある、社会不適合者であるという不安。こうして座席の両隣に人が座っただけで、目を閉じざるをえないことにもまた、エルは不全感を募らせるのだった。
 今日の面談の様子、今電車に座って考えたことを、マンションに帰ったらブログの記事にしようと、エルは思い立った。毎日更新しているが故に、ブログに何を書くかが確定すると、エルの心はその瞬間だけ、問題解決によるストレス軽減を感じるのだった。
 ほどなくして電車は中野に到着した。ずっと閉じていた目を開けてみると、エルは右隣に座っている女性が、携帯電話でゲームに興じていることに気づいた。彼女が遊んでいるゲームは、左隣の男性が遊んでいるゲームと同じで、エルが小学生時代に大流行したパズルゲームのリメイク作だった。
 エルは自分の両隣に座る、容姿も、住む世界も異なる他人同士が、同じゲームを遊んでいることがおかしかった。二人とも熱心にゲームをしているが、同じゲームをしていることに気づいてもいないだろうと想えた。
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2008年09月28日

社会理論の実効性をはかるシミュレーションゲーム(1−2)

連載小説ワークタイトル
『社会理論の実効性をはかるシミュレーションゲーム』


1−2


「評価していただいて、嬉しいです。資料をじっくり読ませてもらっていいですか」
 エルはいつも通りの作り笑顔で、宮野の言葉に答えた。
 アブジェクシオン総合研究所の従業員数は五十名ほどで、平均年収は一千五百万とあった。
「平均年収、高いですね」
 エルは素直に感想をもらした。宮野からすでに十社ほど紹介してもらっていたが、どの企業の平均年収よりも高かった。
「外資系企業等で、一部の役員が高収入のため、平均年収がつりあがる例もありますが、この会社は本当にみんな一千万円以上の給料をもらっています。仕事内容がそれに見合うものですからね」
 エルは書類の真ん中あたりに、「転職時採用初年度の年収例 一千万円〜能力に応じて上限無し」と書かれているのを見た。
 他の会社の資料には、募集職種の仕事内容や、求めるスキル、人物像などが詳細に書かれているものだが、それらの欄には、「詳細は面接時にお伝えします」とだけ書かれていた。
 つまり、この資料をキャリア・アドバイザーから渡されるだけでもある程度の選別過程を経ており、こちらが面接を希望したとして、実際に面接を受けられるかどうかまでの間に、さらなる競争が待っていることをエルは理解した。
「とりあえず、面接だけでも受けてみることにします」
 エルが伝えると、宮野は分厚い黒革の手帳にボールペンで軽くチェックを入れて、次の候補企業の説明に移った。
 エルは他の企業の説明を受けながらも、もしもアブジェクシオン総合研究所のような調査機関で研究員として働くことができれば、自分の仕事に対する自己実現欲求が、満たされるのではないかと想いをめぐらしていた。
 エルの気持ちが最初に紹介した企業に集中していることを察してか、宮野は早々に説明を切り上げた。エルは渡された二十枚にわたるA4縦一枚きりの企業紹介資料の中から、アブジェクシオン総合研究所を含め、三社ほどにエントリーする意志があることを伝え、今日の面談を終えた。
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2008年09月23日

小説『社会理論の実効性をはかるシミュレーションゲーム』(1)

『虐待と監禁のイマージュ』が連載中ですが、(『ともに生きていく責任』が長期連載休止中ですが…)
今日から新しく連載小説を始めます。

連載小説のワークタイトルは『社会理論の実効性をはかるシミュレーションゲーム』。ある男の考える社会理論が、机上の空論なのか、未来社会で実際に役立つ社会理論なのかをはかるための方法として、オンラインのヴァーチャル・シミュレーション・ゲームが選ばれます。ゲーム空間内にある架空の社会で、自分が持つ理念をどう実現していくのか、描写するメタ社会理論小説です。大学の頃自分が持っていた思考習慣を、いろいろ苦労を重ねた現在の自分のフレームワークにあわせて発揮したら、どういう文章が生まれるのかという思考実験でもあります。他のネット上の小説と明らかに異質なので、ジャンル「学問・文化・芸術」、テーマ「文明・文化&思想」に投稿することにします。小説はかつて、そうしたジャンルにあったはずですから。



連載小説ワークタイトル
『社会理論の実効性をはかるシミュレーションゲーム』





 キャリア・アドバイザーとの面談予定時間は午後六時半だった。
 エルは今日を月一回の義務であるノー残業デーの実施日にして、六時前に会社を出た。地下鉄に乗って、転職支援会社のオフィスがある東京駅に向かった。
 丸の内のビルに入り、警備員に行き先の企業と訪問理由を伝えて、エルは高速エレベーター乗り場のある空間に入る許可を得た。
 高速エレベーター乗り場には、セキュリティーカードを胸にぶらさげたビジネスパーソンの他に、エルと同じく来客らしきスーツ姿の者が五、六人いた。
 転職希望者とキャリア・アドバイザーの面談室が並ぶ二十三階にたどりつくと、エレベーターに同乗していた者の多くが降りたった。
 入り口の広いカウンターには、いつも通り受付嬢が三人控えており、並ぶ転職志望者を相手にしていた。
「ようこそいらっしゃいませ」
「宮野さんと六時半から予定のエルと言います」
「お待ちしておりました。三十六番ルームになります。この札を持って、室内でお待ち下さい」
 エルは二十三階の見取り図と、「36」と数字が書かれた札を持って、壁際に人二人がようやく入れるほどの面談室が並ぶ廊下に入って行った。
 三十六番ルームは、西向かいの奥にあり、部屋に入ると、東京駅の夜景が見えた。
 鞄を床に置いて、かしこまって待っていると、担当のキャリア・アドバイザーである宮野恵美が現れた。
 宮野と会うのは、今日で三回目だった。
「おはようございます。あ、髪、切られたんですね。いいじゃないですか。お似合いですよ」
 宮野はそう挨拶しながら、資料の束を机において、席に腰掛けた。エルは忙しい時間をぬって、同僚には内緒で、他の転職支援会社にも通っていたが、宮野と一番呼吸が合うなと感じていた。
 エルは東京都内の国立大学を二年留年しつつ卒業して、企業系のシンクタンクで五年間働いていた。エル本人は調査研究員の仕事を志望していたが、入社以来ずっと上流工程のシステム・エンジニアとして、グループ会社のシステム設計に携わっていた。
 勤務先の会社では調査研究部門が縮小されるばかりで、異動の見込みもなかった為、エルは転職のエントリーをしたのだった。
 複数の転職支援会社に通い、面接もいくつか受けるうち、エルは経験のない研究員に転職することは難しいと感じ始めていた。年収が上がれば、転職先でもシステム開発の仕事を続けていいだろうと想い、今ではシステム系の職種を中心に見て回るようになっていた。社会に情報発信をしたいという欲望は、何も企業活動でなくとも、帰宅後、ブログに書いて発表すれば、実現してしまうのだった。
 宮野は最初エルの本願である研究職志望に沿おうとしたが、やはり学術経験がないと難しく、本人の夢の代わりとして、システム開発系の上流職の他、ネット上で取られた大量アンケートのデータマインニングをする企業などを紹介していた。
「今日の午前中もエルさんにあう会社はないか資料を探していたんですけどね、素晴らしい会社が見つかったんです。こちら、どうですか」
 宮野が渡したコピー用紙一枚の資料には、「アブジェクシオン総合研究所」という社名が書かれていた。事業内容欄には、「政府及び公的行政機関の意志決定を支援する民間のシンクタンク」とあった。
 エルはその会社の存在を初めて知った。フランス現代思想の知識を持っているエルは、アブジェクシオンという言葉を聞いて、シンクタンクには似つかわしくない社名だなと感じたが、宮野はジュリア・クリステヴァの著書など知らないだろうとたった三回の会合で判断し、社名に関する薀蓄は口にしないことにした。
「アブジェクシオン総合研究所は、政府の特務事項に関わる調査研究を行っています。国の事情もあって表立っては存在を公表していませんから、エルさんもご存知ないかもしれませんが、日本でもトップクラスの優秀な調査員を集めたシンクタンクです。本当にお勧めです」
「どうしてまた、調査員の経験も実績もない僕に、勧めるんですか」
「たいていシンクタンクの転職には経験が求められますが、こちらの企業は、研究員未経験の方でも募集しているんですよ。どういう基準で選考しているかは、私どもも掴みかねていますが、エルさんなら、プロフィールやお話を伺っている限り、こうした事業内容があっているんじゃないかと思って、お勧めしたんです。仕事に対するモチベーションの高さもびしびし伝わっていますしね」
 宮野恵美は相手に好印象を持っていることを伝えようとする、営業社員的微笑みを浮かべながら、エルにそう語りかけた。
 エルは転職活動に対するモチベーションはあったかもしれないが、企業で働こうというモチベーションは決して高くなかった。エルにとって仕事は、最早生活を維持するために成されるものに過ぎず、彼の人生の喜びは、ネット上で情報を発信することに集中されていた。
 支援した相手の転職が成功したら自分の評価につながるキャリア・アドバイザーの誉め言葉は、本心から出たものとは信用ならないが、毎日転職志望者の品定めをしている宮野の目をも欺けたことに、エルはまた一人騙してしまったと後悔の念を感じた。
posted by 野尻有希 at 23:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 小説「ゲーム理論」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする